A02 アフロディーテーの手

 むせかえるほどの若さと溢れ出す生気に彩られた恋人は、きらきらとこの世界に君臨していた。なにより美しく——儚ないアフロディーテー。
「わたしはきっとあなたをおいて逝ってしまうけれど、それまでは退屈させないと思う。できるだけ長生きするように努力するから、結婚しよう?」
 いつもは青白い頬が、高揚して桜色に染まっている。諦観を覗かせていた瞳は、午後の穏やかな日差しを照り返し燃えるように輝く。シニカルな笑みしか浮かべなかったくちびるは、密やかに震えていた。
「でもさ、君は退屈してないの?」
 大きな瞳を瞬かせて、さも不思議そうに小首をかしげる。さらりと肩から黒髪が零れた。
「わたしが退屈な人と一緒にいると思う?」
「思わない。じゃ、指輪買わないとね」
 二人はどちらともなく指を絡めると、肩を寄せ合い歩き出した。

『おはようございます』
「DRM-018-042-30F。おはよう。今日はプロポーズのシーンだったよ」
 コーヒーの芳醇な香りが漂うダイニングで、ずんぐりとした機体に声にかける。家事兼介護型自走式AIは今日も起床時間に合わせて「夢」を見せる。私の電子脳にアクセスして、内蔵された千裕の記憶を下敷きにしたVRを見せるのだ。私は毎朝、楽しかった二人の思い出を追体験する。このコーヒーよりも苦いわずかな後悔とともに。
 千裕は身体が生まれつき丈夫ではなかった。どこが悪いということはなかったが、裏を返せばすべてが良くないということだ。身体や臓器の一部を機械化する技術は確立されつつあったが、虚弱体質には意味はなかった。
 雨に濡れればすぐに風邪を引き、遠出をすれば次の日には熱を出し、季節の変わり目には必ず寝込む。それでも千裕は自分でも驚くほど長く生きてくれた。
「ねぇ、君さ。これって倫理規定に抵触しないの?」
『その質問にはお答えできません』
「プログラムの説明義務を無視する辺り抵触してると思うんだよね」
 AIが人類の隣人となって短くない時間が過ぎていた。当初、人工知能といってもできることは限られていたが、やがて一部の労働者の代用となり、さらに専門分野に進出するようになると様々な軋轢を生んだ。職を追われた労働者と資本家の対立から、AIを神を崇める宗教と既存宗教の抗争。最終的に地球規模の治安と経済の悪化に至り、AIの利用制限が設けられた。この狂騒はAI暗黒時代と呼ばれている。
 良き隣人に収まるまで色々な障害や事件が起こったが、今は各家庭に一台自走型AIがある時代になった。しかし、人類の危機は乗り越えられたが、未だに問題は尽きない。
 自走型AIの大部分が、大昔にSF映画に出ていたような人型のロボットとは違って、役割に特化した非人型フォルム。人に擬態したアンドロイドは民間では禁止されていた。また、AIに特定の人間の記憶や思考を移すことや、許可なく電脳にアクセスすることも禁止されている。これは過去にいくつかの事件を経て、たどり着いた法律や倫理規定に抵触するからだ。
 たとえば「AI30-FK08相続裁判」。妻先立たれた富豪の老人が、伴侶の記憶と思考と性格をプログラムしたAIに財産を残すと遺言し、法定相続人とAIの代理人との係争に発展した。その後、法律が改正されて特定の個人を模すことは禁止された。
 しかし、この問題は根深く現代も様々な社会問題を引き起こしている。老朽化したAIに情がわいてしまい、廃棄できずに継続利用したために起こる事故。違法改造で失った家族の記憶を移植して疑似家族を形成。しかしAIは改造時にクラックされ犯罪に利用されるなどはよく聞く話だった。
 DRM-018-042-30Fは千裕の記憶を内蔵されているが、それに紐付いた挙動をしてないので黒寄りのグレーだろう。

 AIによる混乱から世界の秩序が再構築されつつある時代、人類がAIを善良なパートナーにするべく試行錯誤している時代に二人は大学のキャンパスで出会った。
「今日のサリエル先生はお休みだよ」
 AIのプログラミングをさせたら学科一の秀才は、研究室に入ろうとうしていた見慣れない学生を声をかけた。
「えっマジで」
「確認してみたら?」
 学生は、慌てて大学から配布されているIDガジェットを急いで機動する。
「うぁ、四限まで空いちゃう。なんでこの大学は個人のAI利用の制限がここまで厳しいわけ? スケジュールの同期ぐらい四半世紀前でもしてたよね?」
 古めかしカード型IDガジェットの電源をオフにすると、手のひらに投影されていたスクリーンが消えた。古典ともいえるARの一種だ。AIによる混乱の時代よりも前のアンティークに近いガジェットだった。
「AI暗黒時代に、過激派が大学のAIハックしてね。偽スケジュールを流して、大講堂に人を集めて——ボンッ」
「びっくりした。急に大きな声を出さないでよ」
「ごめん。さっきのは嘘。ちょっと面白くなってきて」
 明らかに笑いを堪えている声。
「代わりにこれからお茶でもどう?」 
 嘘をつくのが上手い人間と欺されるが上手い人間の出会いだった。

『おはようございます』
「DRM-018-042-30F。おはよう。今日は初めて会った時だったよ」 
 コーヒーの芳醇な香りが漂うダイニングで、ずんぐりとした機体に声にかける。
 千裕が亡くなって数週間後やってきた家事兼介護型AIとも長い付き合いになる。
『美姫、退屈してませんか?』
「うん、してないよ」
 驚くべきことにこの家事兼介護型AIは、私の健康状態よりも退屈していないかの方プライオリティが高い。もちろん修正は可能であるが、私は千裕の贈り物であるこのプログラムを修正するつもりはない。
「この夢って、リクエストができるの?}
『お答えできません』
 想像通りの返答に思わず吹き出すと、DRM-018-042-30Fがむっとしたようマグカップを突き出してきた。
『コーヒーをどうぞ』
 AI然としているのに、妙に人間くさい挙動がまれに見えるのは、そういうプログラムなのだろう。

 ショールームに金属の塊が整然と並んでいた。
「やっぱりわたしの名前を付けるの?」
「君はどうするの?」
「さぁ、考えたことない。わたしの方が先に逝く予定だからね」
 いたずらっ子のように笑う。眩しいほどの溌剌さは影を潜めたけれど、魅力が損なわれたわけではない。すべらからだった肌には、シミも皺も目立ち始めて年相応だけれど、二人で同じ時を刻んでいた証だ。
「どれにしようかな」
 スタッフは特に声をかけることなく、自由に見させてくれていた。確かにAIの研究者にしたり顔で説明などしたくはないだろう。
 二人で見に来た介護型AIは、なるべく人型から離れたフォルムが推奨されている。また命名せずに型式名で呼ぶことも推奨されているが、亡き伴侶の名前を付ける人間が多いのは仕方ないことだろう。
「この子はどう?」
 ずんぐりむっくりした円柱型自走型AI。頭部はドーム状になっている。
「オプションで色々できるみたいだよ」
 日に日に弱っていく体を考えれば、起き上がり補助や歩行介助装置は付けた方がいいだろう。遠からず必要になるだろうから。
「さすが介護AIね。見て、見て、お肌すべすべ」
 人工皮膚は市販品には法律で禁止されているので、特殊研磨と溶接で金属ではあるけれど滑らかな触り心地になっている。人間でいえば手に当たる部分を撫でている左手に、結婚指輪は光っていなかった。
「指もあるのね」
「どうしてもこの部分は人間に似るのは仕方がないよ」
「大昔のコメディにこんなの出てたよね。マジックアームだっけ?」
「そうだったかな。スターウォーズに出てくるロボットに似てるよね」
「R2-D2をベースにしたらしいよ。人型以外で好感度があるデザインってことらしい。相変わらず、こういうことには興味ないね」
「専門はAI倫理だから。フォルムは分野として被るけど、機能は専門外」
「あっちにある猫型もモデルがあるんだよ」
「猫? 耳がないよ。太ったこけしみたいなのに?」
「それはタブー」
 さも恐ろしいことを口にしたというように華奢過ぎる肩を自分で抱きしめた。
「店員さん、聞きたいことがあるんだけど」
 一通り見終わって飽きはじめたAI倫理家を放って、今度は店員を捕まえて長々と話し込む。
「だいたい見終わったから、今日は戻りましょうか」
「買わないの?」
「うーん、疲れちゃったからまた今度で良い」
「ねぇ、なんか食べて帰ろうか?」
 二人で適当な中華料理店に入って、エビチリと油淋鶏を食べて家路に着いた。
 
『おはようございます』
「DRM-018-042-30F。おはよう。今日は随分長い夢だったね」 
 コーヒーの芳醇な香りが漂うダイニングで、ずんぐりとした機体に声にかける。
『美姫、退屈してませんか?』
「うん、してないよ」
 代わり映えのない光景。
「今朝は最後のデートだった。これも大切な思い出だけど……もう少し楽しいのが良いなぁ」
 DRM-018-042-30Fは毎朝の「夢」をコントロールできると、私は確信していた。そして、気まぐれに——おそらくプログラムされているのだろう——私の願いを叶えてくれる。
『コーヒーをどうぞ』
 イエスともノーとも答えず、いつものようにマグカップを運んでくる。私の好みを完璧に再現したコーヒーは、残酷で優しい味がした。

 二人の関係が知り合いから友人に変化して、少し経った頃だった。
「未だにAIに人類が乗っ取られるって思ってる人っているよね」
 この時期に定番だったキャンパスのカフェテラスでのおしゃべり。
「ベッタベタの話過ぎない?」
 安いけれど美味しくはないと評判のコーヒーをすすりながら、二人はただ言葉のラリーを楽しむ。いかにお互いの気分を損なわずに、面白がらせるかにウェイトが置かれたゲームだ。
「AIがどんなに発達しても、結局のところ管理するのは人間なのに、どうしてそんなに怖がるんだろう? AI暗黒時代だって結局のところ人間様が暴走した結果だし」
「プログラムする側のご意見ですな」
「棘がない?」
「ないない」
 議論を深めたい気もするが、テーマがテーマなだけに、なかなか線引きが難しい。二人ともやや慎重にラリーを続ける。
「AI倫理研究者はどう考えるの?」
「プログラムでAI制御するのは当然だけど、結局一番制御しなくちゃならないのって、人間だよね。そういう意味では同じだよ」
 穏当な着地点だろう。
「そうそう。最近考えているんだけど、AIは人間の良き隣人というよりも手足だって考えた方が絶対良い方向に進むと思うんだよね」
「なるほど」
「自分の手を怖がる人はいないよね? 器用な手だと思えば良い。下手に人間と並ぶ存在にするから、得体が知れない化け物に見えるんだよ」
「この新しい手すげー便利って感じ?」 
「そう。このコーヒーだってAIをきちんとプログラムしてあげれば美味しくなる。その時に、美味しいコーヒーを煎れられる隣人ができたというよりも、スキルが得られたって思った方が幸せだと思う」
「それは却って危ない思想のような気がするかも……」
 二人が想定していた着地点よりも、だいぶ外れてはいたが若い研究者同士有意義なランチタイムだった。  

『おはようございます』
「DRM-018-042-30F。おはよう。今日は懐かしい夢だった」 
 コーヒーの芳醇な香りが漂うダイニングで、ずんぐりとした機体に声にかける。
『美姫、退屈してませんか?』
「うん、してないよ」
 退屈はしていなけれど、このところ体調が優れない。身体が休養を欲するのか、睡眠時間が延びているようだ。そのせいか長い「夢」が多くなった。
 DRM-018-042-30Fに確認すれば教えてくれるだろうが、そのつもりはない。
「もし君が私の死期を予測できるなら、最期は千裕とのお別れが良いな」
 最後のデートは今までに何度もあったが、それよりも新しい新しいものは一度もなかった。決して楽しい思い出はない。ただ辛いだけだが、千裕の生きた証だ。
 私は油断したのだ。千裕が外出から帰ると熱を出すのはいつものことで、三日もすれば熱が下がって一週間後にはけろりと私の作った食事を完食してくれる——そう思っていた。しかし、千裕は一向に回復する気配を見せず、衰弱していった。最後のデートの時にはすでに取り返しが付かない状態だったのだ。
 
 パステルカラーの壁と床に、今はカーテンが引かれているけれど大きな窓。家路に着くことのない人たち集うここに、明るい内装はどこかもの悲しい。
 病室の真っ白なシーツに負けないぐらい血の気のない顔を歪ませて、なにも付けていない左の薬指を彼女は忙しなく擦っていた。
「ごめんね。なくしちゃったみたい」
 最後のデートの頃には結婚指輪ができなほどやせ細っていたのに、どうして気づかなかったのか。私は気づかない振りをしたのだ。彼女を失う現実に向き合う勇気がなかったのだ。
「退院したら新しく作りに行こう」
 彼女は静かに首を振る。 
 私は病院のベッドで丸まる小枝のような指を包み込んだ。
「ねぇ。褒めて。わたし、頑張ったよ」
「偉い。偉い」
 艶が消えてしまった髪を指で優しく梳いていく。
「退屈しなかったでしょ?」
「うん、楽しいよ」
 すっぽりと両腕に収まる細く薄くそれでも柔らかい身体。まだ温かい。
「わたしも楽しかった。美姫はこれから退屈しちゃうね」
「それは困るから、早く元気になってよ」
 笑おうしても巧くいかない。
「美姫は嘘が下手だね。でも、ありがとう。愛してるよ」
 その夜のうちに千裕は静かに息を引き取った。

『おはようございます』
「DRM-018-042-30F。おはよう」
 コーヒーの芳醇な香りが漂う寝室で、ずんぐりとした機体に声にかける。私と少しでも同じ時を刻むために、惜しまれつつも研究者の道をを捨ててしまった千裕。DRM-018-042-30Fは彼女がプログラムした唯一現存しているAI——形見だ。
「君、私の記憶にアクセスしたね」
 自分の死期を悟った千裕が「手」として構築したDRM-018-042-30F。当然、最期を記憶をデータ化してプログラムできるわけがない。必然的に私の記憶を基にしたはずだ。
「明らかな倫理規定違反だ」
 AI倫理研究をしていた私が採る道は一つだ。
『スクラップですね。その前にコーヒーをどうぞ』
 愛用のマグを握る人とは違う滑らかな金属アームには、なくしたはずの千裕の結婚指輪が光っていた。彼女は嘘が上手い。 
『美姫、退屈してませんか?』
「うん——してる。千裕がいなくなって、とても退屈だった」
 私だって嘘ぐらいつけるのだ。
「だから、千裕のところに逝くよ。君も一緒に来るだろう?」
『わたしは還ります』
 今の私には重過ぎるマグカップを、千裕の「手」に押しつけた。