A03 導かれた先は

 ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。
 一定のリズムで車体が揺れる。窓の外を景色が飛んでいく。電車なんて久しぶりに乗った。視界の広さも、周りの景色が飛ぶスピードも、車に乗っている時とは全然違う。いつも運転してくれるお母さんには悪いけれど、楽しさは電車の方が断然上だ。窓から近いところに立っている木は一瞬で視界から消え、遠くに広がる海はゆったりと水面に太陽の光を反射させている。視界に入るものすべてが新鮮で、紹子は頬を窓に押しつけるようにして外を眺めていた。
 窓の外側だけではない。ガラスに反射する車内の様子も視界に入る。紹子の隣に座る兄の貴也は、紹子とは対照的に車内の様子を事細かに見ている様子だった。窓の上や中吊りの広告、更にはドアに貼られたドア開閉時の注意喚起ステッカーまで。すべての文字を目で追っているらしい。やがて、今いる車両の文字をすべて読破してしまったのか、兄は満足そうに座席に深く座った。
 南の高い位置で輝く太陽の日差しは暖かい。興味津々で外を眺めていたはずなのに、心地よい揺れも相まって眠気に襲われる。うとうとしかけて、しかし眠らなかったのは、車内アナウンスが流れたからだった。
『次は、宮路、宮路。お出口、左側です』
 左側、今紹子が見ている方だ。
「ね、お兄ちゃん」
 最後まで言わない内に、貴也は「まだ降りないよ」と返してきた。
「もう、まだ全部言ってない」
「え? 『次降りる?』って聞くつもりだったんじゃないの?」
「そうだけど……」
「合ってるじゃん」
 そうだけど! 紹子は納得がいかない。
「何で? わたしが何考えてるのかお兄ちゃんには分かるってこと?」
「違うよ。紹子、考えてもごらん。前の駅でも、その前の駅でも、紹子は車掌のアナウンスを聞いておれに同じことを聞いてきた。『次降りる?』って。だからおれは、過去の事例から類推した。次もまた『次降りる?』って聞いてくるんじゃないかなって」
「ルイスイ?」
「似た点を元にして別のことを推理することだよ」
「推理」
 紹子の日常とかけ離れた言葉に、思わずオウム返しに応えてしまった。推理! 兄は推理と言ったのか! その言葉から、先日小学校の図書室で借りた江戸川乱歩の『怪人二十面相』を思い出す。あれに登場した名探偵の助手は十二、十三ほどの少年。知恵と勇気を武器に大人に挑んでいく姿に、胸が躍ったものだった。
 探偵たちがしていた謎解き、すなわち推理。謎を追っていた彼らが『推理する』のは、そういうものなのだと受け入れることができる。しかし、探偵でも何でもない、ただの中学生の貴也が『推理する』というのには違和感がある。何だか不釣り合いだ。
「そんな、かっこいいこと言いたいだけでしょ」
「失礼なこと言うなよ。ま、別にいいけど」
 そう言うと兄は紹子から顔を背けた。こちらを見ないまま、紹子にも分かるように大げさに息を吐き出す。それから思い出したように「降りるのは次の次の駅です」と付け加えた。
 電車の速度が落ちてくる。遠くに見えていたホームがだんだん大きくなってくる。ホームで待つ人々の顔がはっきり見えるほどに近づく。その内の一人、黒い帽子を被ったおじさんと目が合い、紹子は慌ててシートに座り直した。
 電車が止まり、ドアが開く。静かだった車内に、わっと音が、そして人が流れ込んでくる。
「ちょー疲れたー」
「早く帰りてえ」
「腹減ったよなー」
 それは子どもの――男の子たちの声だった。
 首をひねって振り返り、声の方を見てみる。男の子たちはみんな、紺に白のラインが入った揃いのジャージを身につけていた。背負っている鞄も同じもので、中にはそれとは別に、丸く膨らんだナップザックや四角いバッグを持っている子もいる。年頃は兄と同じくらいだろうか。
「部活帰りかな。何部だろ」
 兄にそっと耳打ちすると、兄は顔を上げ、男の子たちを見回し。
「バレー部。試合に出て、その帰りじゃない? たぶんあんまり強くないとこでしょ。今日はトーナメント初戦敗退ってとこかな」
 電車が発車するよりも先に、さらさらと答えてみせた。
「何で? 何でそんなこと分かるの?」
「分からないから推理したんだ」
「また?」
 やっぱりかっこつけてみたいだけなんでしょ、とは、もう言えなかった。先ほど紹子の言葉を先読みして見せたのと同じように、また推理をしたのだという。それが本当なら、兄に推理の力があるのなら、兄が出してみせた答えはきっと矛盾なく、真実に近いものなのだろう。
 そして、兄にできるのなら紹子にだってできるはずだ。
「ねえ、推理をするにはどうしたらいいの?」
 身を乗り出して訊ねると貴也はぱっと笑顔になり、それから首を傾げて「そうだなあ」と唸った。
「まずはよく観察、かな」
 兄の言葉でもう一度男の子たちを見る。あからさまにじろじろ見るのは失礼だから、男の子たちを挟んで向こう側、動き始めた窓の外を見ていますよ、というポーズを取りながら。
 まずは男の子たちが着ている紺と白の揃いのジャージ。スポーツブランドのロゴがどこにも見当たらず、代わりに左胸に校章のようなマークがついている。マークの中央には『中』の字がデザインされていることからも、彼らが中学生で、ジャージは中学校指定のものであろうことが予測できる。
 あとは……男の子たちから目を離して、紹子は座席に沈んだ。これ以上の何が分かるというのだろう。貴也は彼らがバレー部だと言ったが、なぜそうだと分かったのだろうか。部活のユニフォームを着ている訳でもないし……もしかしたらジャージの下に着込んでいるのかも知れないが、それは彼らがここでジャージを脱ぎ出すか紹子が透視でもしない限り分からない。だいたい貴也だって透視なんかできないのだから、それ以外のヒントから推測をしているはずだ。それはいったい何だろう。
 ただ男の子たちを見ているだけでは分からない。かといって、どこを見て考えたらいいのかも分からない。
 ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。
 不快な揺れが紹子の胃をかき混ぜ、耳障りな音が紹子の思考と集中力を消し飛ばしていく。
「うう、わかんない」
 降参だ、お手上げだ。両手を頭の上まで伸ばした。脱力して足も投げ出したが、貴也からたしなめられてすぐに引っ込めた。
「もー無理、全然だめ」
「やれやれ紹子君、情けないねえ」
 兄はにやにやと、ありもしない架空の口ひげを撫でる仕草をして首を横に振る。
「そんなんじゃ推理なんてできないよ」
「うるさい。だいたい何キャラなのそれ」
「え、おれのイメージする名探偵ってこういう感じなんだけど、違う?」
「探偵っていうより偉そうなお金持ちみたいだよ」
「そうかなあ」
 不服そうに唇をとがらせたが、貴也はすぐに気を取り直して人差し指を立てた。魔法の杖を振るようにくるくると動かす。
「さて、じゃあ説明してあげようかな。ほら、よく見て」
 兄は男の子たちの中で一番背の低い子が背負っているナップザックを示した。彼らはおしゃべりに夢中で盛り上がっている。きっと紹子の視線にも気づいていないだろう。言われた通りによくよく見てみる。
「……あっ」
 ナップザックは一部がメッシュ生地になっていた。少しだけ中身が見える。丸くて白色、バレーボールだ。
「体育の授業でもあるまいし、サッカー部がジャージ着てバレーボール持ち歩くはずがない。ま、バレー部だろうね」
 本当に、兄の言う通りだった。よく見れば簡単に分かることだった。それに気づけなかったのは、紹子の観察力が足りなかったから。
 唇を噛む紹子をよそに貴也は話を続ける。
「次。あの人たちはどこから乗ってきたでしょう」
「えっと……」ドア上の路線図を見上げ、先ほど聞いた車内アナウンスを思い出し、「宮路駅、だっけ」
「そう。宮路駅って、駅から歩いて五分くらいのところに市民体育館があるんだよ。今日はそこでバレーの地区大会があるんだ」
 へえ、そんなことが……納得しかけて、ふと気づく。どうしてそんなことが分かるのだろう。体育館へ行けば『中学校バレーボール部地区大会』などと掲示されているのかもしれないが、まさか駅にまでそんなものはないだろうし、駅徒歩五分も離れている体育館の様子を電車から覗えるはずがない。
「何でそんなことが分かるの?」
 貴也はいったいどこから大会のことに気づいたのだろう。何と返してくれるのだろう。思いもよらない応えを期待して待ったが、兄の応えはつまらないものだった。
「分かるっていうか、知ってるだけ。うちの学校のバレー部も今日その大会に出てるから」
「は?」
「大会はトーナメント方式。午前の早い時間……八時くらい? から一回戦が順番に始まって、勝ち進んでいけば午後の試合にも出ることになる、ってバレー部のやつが言ってた。けど、今何時?」
 言われるままに腕時計を見る。
「え、えっと、十二時十三分」
「ってことは、早々に負けてきたんじゃないのかなって、思った訳さ」
 これが『バレー部、試合帰り、トーナメント初戦敗退の弱小校』の真相だ。なるほど説明されれば納得がいく。きっとその通りなのだろう。
 ……が。
「ねえ、それさ、お兄ちゃん知ってたから分かったんだよね?」
 宮路駅の近くに体育館があることも、今日そこでバレーの試合があることも。
「そんなの知らなきゃ分かんないよ」
 紹子は何も知らなかった。それなのに紹子が貴也と同じ答えを導き出せる訳がない。貴也と紹子は、そもそものスタート地点が違っていたのだから。
「それってずるくない?」
 しかし貴也は「いや、それは違う」と、きっぱりと否定した。
「いろんなことに対する知識があって、それをつなぎ合わせて答えを導き出す。それが推理力だ。逆に言えば、たくさんの知識をもってないとろくな推理なんかできない」
 いつになく兄の調子は真剣だった。紹子をまっすぐに見て、座席に放り出された紹子の手に自身の手を重ね、ひとことひとこと丁寧に綴っていく。
「確かに今のは、紹子が知らないことを知っていたおれの方が有利だった。これは今までに見たり聞いたりしてきたものの積み重ねの差だ。でも積み重ねはいつでもできる。いい? 紹子、今からだって始められるんだ」
 その知識は、一生必要ないかもしれない。必要になったとしても、今すぐではないかもしれない。しかし将来――数日後かもしれないし何十年も先かもしれないその瞬間に、知識があるのとないのとでは大きな差が生まれる。
「だってそうだろ? 推理する力があったって、材料になる知識がなかったらどうにもできないんだ」
 途中まで貴也の言葉に魅せられていた紹子だったが、最後に付け加えられた「今の紹子みたいにね」という台詞で我に返った。
「うわ、その言い方、むかつく」
「でも事実でしょ」
「そうかも……しれないけど」
「大丈夫だよ」兄の声が一段階大きくなり、「紹子にだって絶対できる」
「……ほんと?」
「おれが保証するよ」
 貴也が力強く頷いた。今日一番の説得力がある言葉だった。
「じゃあ試しにひとつ考えてみようか。この車両の後ろの方に、黒い帽子の男の人がいるよね」
 紹子が宮路駅のホームで目を合わせてしまった人だ。男の子たちに気を取られて気づかなかったが、あの人もこの電車に乗ってきていたらしい。
「あの人、どんな人だろう」
 おじさんの被っている黒い帽子は、いわゆるシルクハットだった。白いシャツに黒と赤のベストを着て、ズボンも真っ黒だ。紹子の初見の印象は『マジシャンみたい』である。おじさんのような服を着ている人を、テレビ番組でならともかく、街で見かけたことはこれまでに一度もない。貴也が彼に目を止めたのも頷ける。
 あの目をひく服は私服なのだろうか。それとも衣装? 仕事着? 仕事着ならいったいどんな仕事を?
 おじさんに訊ねない限り答えのないものだから、様々な仮定ができる。いろいろな可能性を考え、そこから想像し、矛盾が生まれたら一から考え直す。パズルに似たこの繰り返しは紹子をわくわくさせた。高揚感は、乱歩を読んだ時のそれに近かった。
 しかし、それも終わりの時を迎える。
『次は、青井、青井。お出口、左側です』
 車掌のアナウンスが車内に響く。気づけば次の駅が目前だった。弱小バレー部たちがおしゃべりをやめ、ドア周りに集まり始める。次で降りるらしい。
「さ、紹子、おれたちも降りるよ」
 電車の揺れが小さくなり、ゆっくりと停車する。ドアが開く。電車から飛び降りる。
 兄に手を引かれ。
 導かれながら。