A05 現代人外住宅事情

 ある朝、律子が目を覚ましてベッド横のカーテンを開けると、ガラス戸にびっしりと手形がついていた。
 ぼんやりと、すっかりガラス戸汚くなったなあと考えてから、手形だと認識した瞬間、フリーズした。一番下から一番上まで、びっしりと、跡がついている。足形のようなものも見える。
 驚きすぎて悲鳴も出なかった。
 十階建てマンションの六階。しかも角部屋ではない。最上階やもっと下の階ならともかく、何故こんな中途半端な家のベランダで、こんなものがつけられているのか。ベッドはベランダの脇にあるのに、物音すら気づかなかった。
 ストーカーか強盗未遂か、まさか、霊なんてことあり得ない。
 ――気味が悪い。
 慌てて警察に通報して、会社に遅刻の連絡を入れたが、電話に出た受付の「声震えてるけど、大丈夫?」という言葉に、泣きそうになった。警察官が来るまでの間、トイレに籠もって縮こまっていた。
 やってきた警察官は、ガラス戸を見て、うーん、と首をかしげた。
「雨の跡じゃないですか?」
 遠目に見れば、そう見えなくもないが。律子はムッとして言い返した。
「でも雨降ってませんでしたよね」
「ずっと前から汚れていたのに気づかなかっただけでは?」
 警察官は、家の物何か無くなってました? 侵入された形跡とかあります? と質問をしてから、律子が答えられずにいると「被害届だします?」とだるそうに言った。
「ベランダだって不法侵入ですよね!?」
 指紋を採るとかどうとかしてくれればいいのに。律子は憤慨して反抗した。曲げてやるもんかと、被害届を出すと言い張った。


 それでもやっぱりあてにならないし、恐すぎた。
 警察署から戻っても、やっぱり手形は消えていない。念のため写真を撮った。部屋の中から、ベランダから、近くから、遠くから何枚も。大人の手形には見えない。どう見たって、大人の掌程度の大きさ。子供だ。
 子供がワンルームマンション六階のベランダに侵入したとは考えにくい。隣の家にも子供は居ないはず。
 考えすぎるとまた気味が悪くなるのでやめた。ガラス戸に水をぶちまけ、雑巾で拭きまくった。汚れだとか雨の跡だとか言われてたまるもんか。恐怖を怒りで押さえ込んで、拭いて拭いて拭きまくった。
 それから数日間、神経過敏になったのか、上階からの足音に悩まされた。それだけでなく、夜中に玄関をノックする音が響いて、あまりの恐怖に布団を頭からかぶって震えていた。一体誰が一人暮らしの女の家に、夜中に連絡も無く来るのか。しかもチャイムも鳴らさずノックだなんて。
 気味が悪い。家に居たくない。明日は友達の家に泊まらせてもらおうと、何度も何度も心の中で唱える。その夜は暴風雨が吹き荒れ、窓を揺らす風雨の音がまた恐怖をあおった。

 ふと気くと、外から鳥のさえずりが聞こえていた。それから、車の音。人の話し声。
 堅くつぶっていた目を開いて、呆然とベッドに座り込む律子の目の前に、カーテンの隙間から明るい光がさしこんでいる。朝だ。律子はホッとして、カーテンをあける。
 少し風雨で汚れた窓に、またべったりと、上から下までびっしりと、子供の手形がついていた。
 全身の毛が総毛立った。警察、と思ってから、この間の警察官の態度を思い出す。あてにならない。証拠でもないと。
 なんて悠長にしてたんだろう。簡単な監視カメラくらい仕掛けておくんだった。
 天井を駆けていく足音がした。ここは最上階じゃない、上階の人間の足音くらいよく聞こえているが、これは大人が歩くような音ではない。子供のバタバタと駆ける音に思えた。
 律子は音を追って何気なく天井を見上げる。
 ――ひっ、と、飲んだ息が音を立てた。
 天井にも土で汚れた手形のようなものがついている。それに、足形も。
 キッチンで、急に水音がした。
 律子はビクリと肩をふるわせて、キッチンを見た。狭いワンルームのキッチンは、玄関へつながる廊下にくっついた形になっている。そこから、水がシンクを叩く音が響いている。
 恐る恐る足を踏み出して、律子はキッチンへ向かった。狭い部屋は三歩ほどで横切れる。のぞき込むと、蛇口から細く水が出っぱなしになっている。
 誰も居ない。
 律子は手を伸ばし、上げ下ろし式の栓を下ろし、水を止めた。
 何かが上から落ちてきて不意に水が出てしまうようなタイプの蛇口ではないし、何も落ちてなどいない。
 一体、どうして。
 昨日友人に電話したとき、ストーカーかも、と言った律子に、友人は大真面目に「お祓いでもしたほうがいいんじゃない」と言ったのを思い出す。
 もしかして、もう不審者が部屋にいるのかもしれない。それとも、もっと別な何かなのかもしれない。
 どっちがマシだろう。どっちも嫌だ――
 思ったときだった。ふいに子供の笑い声が聞こえた。家の外ではない。くすくすと、間近から。
 見ると、玄関に子供が立っていた。赤いチュールのような透ける素材をたくさん重ねた、ふんわりとしたワンピースを着た女の子だった。
 律子は再び息を飲む。ふい、と子供が消える。今度こそ律子は悲鳴を上げた。部屋の中に駆け戻る。
「おっきな声」
 高い声が、転がり落ちてきた。
 子供が天井から逆さにぶら下がっていた。髪の毛もスカートも重力に反発して、天井の方が床のようにして立っている。
「なんで、どうして、意味わかんない!!」
 律子はめちゃくちゃに叫んだ。
「そんなにびっくりしないでよ」
 ケタケタと子供が笑う。
「びっくりするわよ!」
 律子は思わず怒鳴り返した。
「あんた誰よ! なんなのよ!」
「何って」
 子供はきょとんとして言う。笑い声がやんで、訳の分からない感情の嵐の中で、違和感を覚えた。会話が成立してる。なんだかわからないが、霊と会話してる。
 思っていたら子供は無邪気に言った。
「あたし、座敷わらしよ」
「はあ?」
 心の底から声を出してから、律子はもう一度子供を見上げた。
「座敷わらしって、おかっぱ頭の着物の子でしょ!?」
 自分でも何を言ってるんだと思ったが、律子の言葉に、ぶら下がった子供が眉根を寄せた。
「やあね」
 天井をパタパタと歩き、そのまま壁を降りて、床を歩み寄ってくる。何かのミュージックビデオのようだ。
 白い顔に、真っ黒な瞳、真っ黒な長い髪の少女は、馬鹿にした様子で言った。
「妖怪だって時代に合わせてアップデートするのよ。ずっと着物姿の意味ってある?」
 あるかないかと言われたら、ない気がする。だが、座敷わらしだろうが幽霊だろうが、どうでもいい。気味が悪いし信じたくもなかったが、自分が幻覚を見ているのでなければ、あんなの普通ではないから、信じるしかないのだろう。
 侵入者か、霊か、わけのわからない生き物か、どれだったら一番マシだったのだろう――
「やめてよ! 座敷わらしなんて! 出て行って!」
 気づくと律子は叫んでいた。
「えっなんで!? お金持ちになれるのに!?」
 座敷わらしが心底びっくりした顔で律子を見る。律子は怒鳴り返した。
「だって座敷わらしって、いる間はいいけど、出て行ったら貧乏になるんでしょ!?」
「それはそうだけど、ちょっと違うわよ」
 子供はむすっとしたようだった。
「人の命運はバランスがとれているんだから。受けるべきものを早めにたくさん受けたら、分不相応なものは回収され、あとは何も残らないというだけよ」
「何も残らない! ほら! それよ!」
 律子はもう訳の分からない状況にやけくそになりながら、子供を指さした。
「私はなるべく波風なく穏やかにゆるゆると一生を送りたいの! 太く短く生きたくないの! 毎日ドラマを楽しみにしたり、本を読んだり、ちょっとしたことをずっと長く楽しんでいたいの! 後に不幸が来るの分かっててなんで喜べるのよ!」
「……えー、現代っ子ー」
「だいたいここは私の家なんだから、私に黙って居着かないでよ! 私の家限定なの? マンション全体? もう何日住み着いちゃったの? マンションでも効能あるの!? これだけ家があると座敷わらしの力も分散されるの!?」
「効能って」
 このマンションは十階建て、各階十戸、全部屋入居しているとして百世帯、ワンルームマンションだからイコールで百人。でもこっそり二人で住んでいる家があればもっと多い数の人間がいるはずだ。
 少女はびっくりした顔をしてから、小さな手で顔を覆った。ガラス戸や天井にべたべたと跡をつけたあの手だ。
 しくしくと泣き出した。
「こんな子供を追い出すなんて」
「リアル子供じゃないでしょ!」
 座敷わらしは、手をどかすと、べーっと舌を出した。
 なんて憎らしい。恐怖も何も吹き飛んで、律子はイライラしてきた。そんな律子の様子などまったく気にした様子もなく、少女はツンと顔をそらして言った。
「このマンション、この辺りで一番見晴らしがいいから気に入ってるの。しばらくいさせてもらう。それに」
 勝手に、と言いかけた先を制して、座敷わらしが手をあげる。
「マンションだし、たくさん家があるし、私が居ついてもそんなに影響ないと思う」
「それでも嫌よ、出て行ってよ!」
 座敷わらしは、そんな律子を見て笑った。にんまりと意地悪く。
「それってあなたの意見でしょ。マンションに住んでる人の総意なの?」
 ――痛いところを突かれた気がする。
 でも影響ないだなんて、本当なのか怪しい。出ていってほしいと言ったところで、一体どうすれば出ていってくれるのか。
「もし、万が一あなたの気が変わって、私の家に居着いたらどうなるの?」
「マンションではなくこの家が住処ってことになるから、あんたの家の座敷わらしということになるわね」
 最悪だった。ストーカーでもなく幽霊でもなかったけれど、得体の知れないものに変わりない。でも、原因が分かったから良かったと考えるべきなのか。管理会社に対策してもらおうにも、どう連絡したらいいのか。
 ――でも、と律子は考える。
 賃貸のこの家にいつまで居るかは分からない。二、三年のうちに結婚したりして引っ越したりするかも知れない。今のところ全然予定はないが。
 ここぞと運気をあげたいタイミングで、家に何日か居てもらうということも、もしかしたらできるのではないか。
 子供はにんまりと笑った。
「悪いこと考えてる~。そんなに便利に使われないよ。からかうの楽しいから時々遊びに来てあげてもいいけど」
 図星を指されて律子は顔が真っ赤になるのが分かった。
「とにかく、もう手形付けたり、足音させたり、ドアを叩いたりイタズラはしないで!」
 大声を上げてごまかす律子を、子供はケラケラと笑う。強欲なくせに怖がりね、と。そして言った。
「手形とか足音は私だけど」
 くるりとその場で回る。
「ドアのノックは知らないわね」
 すうっと床に吸い込まれるようにして子供は消えた。
「えっ」
 律子は声を上げた。床に向かって、ちょっと、っと叫ぶが、反応はない。フローリングの床があるだけだ。
「えっ、えっ!? ちょっと待ってよ、どういうこと!」
「二度と来ないでって言ったじゃない」
 声だけクローゼットから聞こえた。ちょっと待って、そうだけど。慌てる律子をからかうように、笑い声が遠くなっていく。
 律子は思わず玄関を振り返った。
 鉄の扉を、ゴンゴン、と叩く音が響く。