A06 魔女と秘密の88手

 僕たち家族の住むマンションの裏手には、いかにもそれらしい古い西洋屋敷があって、近所の子供達から「お化け屋敷」と呼ばれていた。その屋敷は、かつては華族が所有する別邸で、華やかな社交の場だったなどという噂がもっともらしく流れていたが、僕が物心つく頃には無人の屋敷となっていて、雑草の生い茂る屋敷の庭は隠れんぼに最適の遊び場として近所の子供達に人気の場所だった。もっとも、賢い僕がこの屋敷の庭が僕の住むマンションの外階段から丸見えであることに気付いて以降、ここでの隠れんぼは次第に流行らなくなってしまった。「お化け屋敷」の庭に隠れた子供達を鬼役が簡単に見つけられるようになってしまったのも一因ではあるが、直接の原因は、鬼役の子供が見つけた子供達の名前をマンションの外階段から大声で叫ぶことについて苦情が出るようになったことにある。僕の住むマンションの管理人である無愛想な初老の男を苦手とする子供は多く、僕も彼に唐突な怒鳴り声を浴びせられて以来、彼のことは苦手である。
 いずれにしても、この屋敷に子供達が集うのは昼間だけだ。陽が傾き始めると、子供達は一斉にこの屋敷を離れていく。理由は言うまでもなく、この屋敷が「お化け屋敷」と呼ばれる所以である。僕は幽霊などと言う非科学的なものを信じる子供ではなかったが、夕暮れ時にこの屋敷に住む幽霊に手招きされて危うく冥界へ連れて行かれそうになったという証言をくだらない嘘だと断じるほど非情でもなかった。屋敷の庭は「幽霊と見しはすすきの枯れ尾花」の歌を再現するのに事欠かない環境だったし、子供達の安全のために大人達が知恵を絞ったのなら、乗ってやるのが優しさだ。
 この屋敷に関し、僕にとって想定外の問題が起こったのは、小学四年生の夏休みのことだ。その日、僕は、夕食作りとそれに伴う雑務を免れる良い方法を閃いた母から臨時の小遣いを与えられ、千円札一枚を握り締めて川沿いの運動広場で開催中の夏祭りに食料を調達に出掛けた。そして、間違いのない穏当な選択として選んだ焼きそばで当座の空腹を満たした後、土手を往復しながら残り小遣いの有意義な使い途について慎重かつ真摯な検討を重ねる最中、不運にも級友たちと鉢合わせてしまった。もちろん、祭りの会場で級友と会うこと自体は僕の想定の範囲内だったのだけれど、級友たちに付き合って輪投げや金魚掬いの屋台を巡った後、早々に小遣いを切らしたリーダー格の健児けんじが唐突に「お化け屋敷で肝試しをやろう」と言い出したのは想定外だった。祭りの会場では既に提灯が赤々と輝いていて、空には金色の満月があった。
「ねえ、悪いこと言わないからやめた方がいいと思うよ? たとえ無人の家でも、勝手に入ったら不法侵入なんだからさ」
 僕は、立派過ぎる門越しに、遠慮のかけらもなく「お化け屋敷」の門をくぐった健児たちに告げた。
「うっせーな、メガネクラ。怖いんならお前は来なくたって良いんだぜ?」
 メガネクラ――それは当時のクラスメイトによって僕に付けられていたあだ名だった。僕の両親は強度の近眼で、僕も幼稚園の頃から眼鏡を掛けている。ゆえに、「眼鏡の金倉」でメガネクラ。もしかすると性格が「根暗」だという意味も込められていたのかもしれないが、所詮は無能な子供の戯言だ。低俗な遊びに一々腹を立てて時間とエネルギーを無駄にする必要もない。それが、僕の当時からのポリシーだった。
「別に怖くなんかない。幽霊なんてそんな非科学的なものが存在するはずないし、存在しないものを恐れる必要なんてないじゃないか」
 結局、当時の僕は、悪趣味なあだ名に腹を立てるほど子供ではなかったものの、健児の何の捻りもない挑発に乗ってしまう程度には子供だった。
 健児は屋敷の玄関に鍵が掛かっていることを確認すると、夏の日差しを浴びて旺盛に伸びている雑草を掻き分けながら裏庭へと回り、僕もその一行の最後尾についた。
「火の玉だ、逃げろ!」
 級友たちと共に裏庭から覗き込んだ窓の奥に青白い光を見つけた時、真っ先に逃げ出したのは健児だった。健児が「逃げろ!」の言葉を発した時、僕はやっと古びた木製の窓枠に手を掛けたところで、未だ「火の玉」を視認するに至らず、そのまま独りその場にとどまった。本当にそんなものが存在しているのなら、この目で確かめなくてはならない。
 僕は、目を凝らして薄汚れた窓越しに薄暗い屋敷の奥を見つめ、そして――魔女を見つけた。
 青白い光が、暗闇の中に白い肌を浮かび上がらせていた。黒いフードからこぼれた黒髪が揺れて、魔女の瞳が僕を捉えた。紅の唇が円弧を描き、僕が魔女に魅入られた。そして、僕が息を飲むと同時に、魔女は消えた。
 僕が、ガラス窓に映し出された自分の間抜け顔を呆然と見つめていると、突然、窓が悲鳴を上げて開いた。
「君、近所の子? いけないなぁ、勝手に人の家に入って来ちゃ」
 半分だけ開かれた窓から、黒いとんがり帽子の女性が身を乗り出して笑っていた。
「……ま、魔女?」
 僕は驚きながら問うた。決して怯えていたわけではない。
「ああ、これ? ハロウィンが近いからね、それ風にしてみたの。似合ってる?」
 彼女は、ふふっと微笑み、広いつばの端を摘んで見せる。彼女が「近い」と言ったハロウィンまでまだ二ヶ月以上あるということは知っていたが、直ちに問うべき点がそこではないということは分かっていた。
「本物の魔女じゃないの?」
 僕の更問いに、彼女は「まさか」と笑った。
「でも、今、部屋の中で火の玉を出してたでしょ? あれはどうやったの?」
 僕の立て続けの問いに、彼女は驚いたように目をぱちぱちと瞬かせた。薄暗い部屋の中で、彼女は確かに「火の玉」を手にしていた。僕は、不定形に揺らめく青白い光が彼女の掌の上に浮かんでいるところを目撃したのだ。
「『どうやったの?』か……ふむ、どうやったと思う?」
 彼女は興味深げに僕を見下ろし、それから得意げな笑みを見せた。「解いてごらん」とでも言うような挑発的な笑みに、僕は一瞬言葉を飲んだ。
「……それが分からないから、聞いてるんだ」
 不本意ながら、そう返すしかなかった。薄汚れた窓越しに薄暗い部屋の中を覗いていたから彼女が手にしていた懐中電灯の明かりを火の玉と見間違えた……なんてつまらない説明を繰り出したくはなかった。
「そう。でも、秘伝の技をそう簡単に他人には教えられないわね。大事な商売道具だし」
 彼女は満足げに微笑んだ。
「商売道具? もしかしておばさん、詐欺師?」
 僕が思わず問うと、彼女の表情が歪んだ。
「失礼ね!」
 そう突っ込みを入れてきた彼女の右頬は明らかに引き攣っていた。「失礼」だったのが、当時まだ二十代だったかもしれない彼女を「おばさん」扱いしたことなのか、初対面の相手をいきなり犯罪者扱いしたことなのか、当時の僕にはよく分からなかったが、己の無礼については反省している。若気の至りで許してほしい。
 しかし、その僕の無礼な挑発は僕に福音をもたらし、結果として、僕は非常に上手くやったのだと思う。
「あなた、魔女の秘密が気になる? どうしてもって言うなら、新しいとっておきの魔法を見せてあげようか?」
 思わぬ申し出に、僕は一瞬の迷いこそ抱いたものの、身体を震わせる好奇心に打ち勝てず、ゆっくりと彼女に向かって頷いた。
 彼女にとって、それは一時の戯れに過ぎないものだっただろう。けれど、それは僕にとって間違いなく人生を揺るがす大事件だった。
 その日、僕が「お化け屋敷」――否、魔女の屋敷の中で見たものが何であったのか、僕は未だに説明することができない。
 美しい光の乱舞を見たような気はする。悪魔の囁きと天使の福音を同時に聞いた。そして、沸き立つ血潮を感じていた。
 終幕の挨拶の後、僕は勢いよく立ち上がって叫んだ。
「僕を弟子にしてください!」
 思わず口をついて出た言葉に、誰よりも僕自身が驚いていた。それでも、彼女の使う魔法の仕組みを知りたいと思ったことは本当で、「彼女の弟子になる」というアイディアは後々考えても妙案だったとは思っている。
「残念だけど、私は弟子は取らない主義よ」
 しかし本当に残念なことに、僕の妙案は瞬く間に彼女に一蹴された。


   ∞ ∞ ∞


 御手洗華音
みたらいかのん
は、全国各地で興行を行う自称イリュージョニストだった。端的に言えば、手品師だ。だが、僕は彼女が魔女であると知っている。
 その根拠は明確で、八年前、僕が初めて彼女と出会ったあの日、彼女が僕に魔法を掛けたからだ。その魔法は、未だ解かれていない。
 原因が分かれば対処法も調べられるはず――そう思って、この八年間、僕はしつこく彼女の自宅兼イリュージョン研究所たるこのお化け屋敷――今は魔女屋敷と呼ぶべきかもしれない――に押し掛け続け、彼女が僕に掛けた「魔法」の仕組みを理解しようと虚しい努力を続けている。
「師匠、僕を弟子にしてください」
 玄関の扉が外側に押し開かれるなり、僕は開口一番に告げた。
「君も本当にしつこいねぇ。私は弟子を取らないし、イリュージョンの仕掛けは誰にも教えないよ」
 彼女はため息を吐きながら笑った。僕の執念深さに呆れてはいるようだが、彼女は決して僕を追い返さない。彼女が僕に手品を教えてくれたことはないが、彼女は新作の「イリュージョン」――彼女は自分の手品を手品とは決して呼ばないし、「魔法」と呼んだのも八年前のあの日だけだ――を僕の目の前で披露することを躊躇わなかったし、結果として、僕は彼女が使ういくつかの仕掛けを科学的に解明することに成功していた。もっとも、肝心の、彼女が僕に掛けた「魔法」の仕組みについて、僕は未だ何の手掛かりも掴めていなかったのだけれど。
 そんなわけで、僕は彼女のことを敬意と希望を込めて「師匠」と呼んでいる。最初こそ、彼女は「師匠」と呼ばれることを嫌がったけれど、僕がしつこく呼び続けた結果、ついに彼女は僕が彼女を「師匠」と呼ぶことについて何の抗議もしなくなった。「弟子にしてほしい」という依頼については、毎回明確に断りの返事を与えられているけれども。
「師匠のイリュージョンはどれくらいの種類があるんですか?」
 僕は師匠の後についてリビングへと向かいながら問い掛けた。
「んー、八十八くらいかな」
 思いの外あっさりと答えが返ってきて、僕はこの八十八という数字が僕の質問に対する回答として全く信頼に値しないものであることを理解する。
「ずいぶん中途半端な数ですね」
 僕が嫌味を込めた感想を述べると、師匠は子供っぽい笑顔で振り向いた。
「そお? 末広がりで縁起が良いじゃない?」
 師匠の考えていることは相変わらずよく分からない。気まぐれで、子供っぽい。でも、それこそが、僕が彼女を魔女と信じるもう一つの理由でもある。
 僕はリビングのソファーにショルダーバッグを下ろし、その間に師匠はキッチンへと向かった。吊り戸棚にしまわれた来客用のカップに背伸びをして手を伸ばしている。僕は師匠の背後から手を伸ばし、師匠に代わって棚のカップを取った。
「あら、ありがとう」
 僕がカップを手渡すと、師匠は穏やかに微笑んだ。
 師匠の微笑みは、八年前と何一つ変わらない。当時まだ彼女の肩よりも低かった僕の身長は、今では彼女を頭一つ越す程にまでなったと言うのに。
 師匠はやかんを火に掛けながら多様に取り揃えた紅茶葉から今日の気分に合うものを選び出そうと真剣な検討を始め、僕は独りリビングに戻った。ゆったりとソファーに腰を沈め、傍のショルダーバッグの中から魔術研究書――師匠に弟子入りを願い続けてきた僕の歴戦の記録と戦略が記されたノートである――を取り出す。
「八十八……か」
 歴戦の記録を眺めながら、僕は小さく独り言ちる。僕が彼女に近付くべく講じた悪手も、次でちょうど八十八になる。
 当初は毎日のように弟子入りを願い出ていたが、戦略家の僕は早々に「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる作戦」をやめ、不意打ちを仕掛けて彼女がうっかり「うん、いいよ」などと言ってしまう状況を作り出そうときめ細かに作戦を練るようになった。もっとも、その手の込んだ作戦を八十七も繰り返してもなお、僕は未だに彼女から期待どおりの返事を貰えてはいないのだけれど。
 僕は意を決して魔術研究書を閉じると、勢いよくソファーから立ち上がった。
「師匠、僕を弟子にしてください」
 八十八回目の依頼。
「弟子は取らない主義よ」
 八十八回目の同じ答えは、僕に背を向けたまま放たれた。
「そうですか……じゃあ、諦めます。もう、弟子にしてくれとは言いません」
 僕が潔く引き下がると、彼女は驚いた表情で振り返った。初めて、魔女の慌てる表情を見た。やっと挙げた小さな勝ちが、幸運の前触れとなるのか、地獄への手土産となるのかは分からない。
「弟子にはしてくれなくて良いです。その代わり……」
 そこで僕は一呼吸入れた。
「僕を、あなたの夫にしてください。僕は今日、十八になりました」
 魔女が目を見開き、息を飲んだ。僕は言うべきことは言った。たとえこのまま魔法で呪い殺されたとしても、後悔はない。
 そもそも、八年前のあの日、僕は彼女の魔法を掛かって恋に落ちたのだ。あれ以来、僕は初恋を拗らせ、今に至るのだから、これ以上の呪いはないだろう。
 魔女が俯き、僕は彼女が僕に死の呪いを与えるのを待った。その覚悟はできていたし、八年以上苛まれ続けた彼女の魔法から解放され、この非科学的で不合理な世界とおさらばできるならそれはそれで悪くないことだった。
「面白い提案だけど、まだ十八歳じゃあね。八百年を生きた魔女の花婿としては頼りないと思わない? あなたが八十八歳になったら考えてあげる」
 顔を上げた彼女はいつもどおりの笑みを浮かべて僕を挑発した。既に、彼女の顔に戸惑いはない。
 今ここで呪い殺されても後悔しないとの前言は撤回しよう。僕は少なくとも八十八歳まで生きる必要がある。あの日、彼女が僕に掛けた魔法を再現するための手掛かりをやっと得たのだ、今ここで呪い殺されるのは御免だ。
 いつか、あの日彼女が僕に掛けた魔法を、今度は僕が彼女に掛ける。八年分のこの呪い――例えもう七十年掛かったとしても、呪い返してやらなくては気が済まない。



 ここまでで、僕は確かに八十八の手を試みた。大きなものも、小さなものも、「手」と呼ぶには些か心許ない形のものも含んではいるけれど。
 物語は一旦幕を閉じたが、魔女の呪いに立ち向かう勇敢なる探偵諸氏によって全ての謎が解き明かされることを願いつつ、今、僕はこうして聡明な探偵諸氏の推理の手掛かりとなるよう、魔術研究書に新たに八つの手を書き加えているところである。