A07 最果ての巫女

 不意に満月が翳り、途切れ途切れに竪琴を爪弾いていた灰白姫は、たおやかな手を止めた。
 しかし、叢雲が夜空に幕を掛けたのではなかった。黒曜石のつやを帯びた巨大な翼の羽ばたきが、庭園に降りかかる月光を束の間、地上から切り離したのだ。
「梟? あなたなの?」
 竪琴を膝から下ろし、灰白は跳ね起きるようにあずまやから立ち上がって、柔らかに夜露を含んだ庭の土を踏んだ。小粒のダイヤをちりばめたようなさざ波をたてる小川を、軽やかな娘の足が飛び越える。緻密に織り込まれた絨毯のような草花が、華奢なサンダルの着地を受けとめた。
 鬱蒼と生い茂った木立の一本の梢から、するすると黒い影が蛇のように伝い降りてきた。灰白は声を弾ませ、両腕をさしのべて駆け寄った。
「やっぱりあなただったのね、私のおちびさん。今夜はあなたに会えるような気がしていたのよ」
「人族の姫よ、俺はもはや小さくはない」
 天幕のように逞しい双の翼を背中にたたみ込みながら、古びた楽器の絃を擦るようなしゃがれ声で妖魔は笑った。
「いいえ、それでも、あなたはいつまでも私の小鳩、虹を背負うとは思いも寄らぬ孔雀の雛。はしばみの木の下で、臍の緒のついたまま死にかけていたあなたを拾い上げた日からずっと。でも、そうね――確かに、たったの七度、月の巡りを数えるうちに、小山を見上げるばかりに育つとは思ってもみなかったけれど」
 唇を尖らせて反論する娘に対して、梟は広い肩を竦めただけだった。
「さぞ養い親が手練れだったのだろう。百人の子どもを産み育てたに違いないさ」
「まあ、減らず口を。私は世俗の不浄を離れた『最果ての巫女』としてこの神殿にいるのよ。糸を通さぬ真珠のように、これまで男の人は知りませんし、これからも知ることはないでしょう」
 無邪気に言い返す灰白を前に、翠緑玉のような妖魔の双眸に奇妙な色が走ったが、用心深い瞬きと共に押し隠された。
「ああ、もちろん、貴女は申し分のない巫女姫だとも。大いなる威光をもって、この聖なる花園を統べておられる――神殿、と呼んで差し支えないのだろうな? 俺の目には廃墟の残骸にしか見えないが」
 わざとらしく辺りを見渡した妖魔に、灰白はさっと顔を赤らめた。
 古い習わしを持つ王国に、彼女は生を享けた。いつの頃から在る習わしかは、故事来歴に通じた盲目の僧侶に尋ねても、埃の積もった歴史書を紐解いても、しかとは分からない。
 王国は、都から遠く離れた太古の森に国境の一つを横たえていた。悪霊や魔物たちが跋扈するという森の程近くに、陰鬱な城壁を巡らせた孤城が王の名のもとに築かれていた。庭園を有する息苦しい神殿は、王の血を引く未婚の姫の一人があるじとなって、一生をそこに住み暮らすことによって意義を為した。『最果ての巫女』という敬称ではあり、異界のごとき森の脅威から王国を鎮護する要として尊崇されてはいたが、人里離れた荒れ地に追放され、幽閉されることには違いなかった。
「ええ、それはね――仕方がないわ。歴代の高貴な巫女たちと違って、私の母は妾妃のなかでも殊更に身分が低かったのですもの。恨みに思ったことなど一度もないけれど――泉下のお母様の魂に安らぎあれ――『最果ての巫女』に任じられた王女は必ず、相応の手当てを国庫から受け取るものなのだけれども、女奴隷の腹から産まれた娘に奢侈はふさわしくないと、あまり支度を整えてもらえなかったの」
 雨に打たれた百合のようにうつむく乙女に、慌てたように妖魔は歩み寄った。下肢の鈎爪に踏み潰され、蔓草が青く香った。
「嘘だよ、皆嘘だ。まごうことなくここは神殿、貴女のためだけにしつらえられた麗しの園だ。蓬生に咲き乱れる野花は女主人の目を楽しませる絵画にほかならないし、破れ垣に張った蜘蛛の巣はたしなみ深い紗の帳となろう。倒れた石柱は苔むして、逍遥に疲れた貴女のひとときの御座所の誉れを享ける――」
 一対の星のように闇間に燃える目が、気遣わしげに灰白を覗き込む。
「まったく、俺の舌よ、千年も呪われるがいい。そんな悲しい顔をさせるために、訪ねてきたのではないのに」
「悲しんでなどいないわ」
 かぶりを振り、灰白は努めて微笑みを保った。
「久方振りにあなたが顔を見せてくれたのですもの、嬉しいに決まっているではないの」
「土産があるのだ。僅かなりとも気分が晴れるといいのだが……」
 衣嚢から、妖魔は何かを取り出した。墨色のゆったりとした袖口から覗く手が、一輪の薔薇を差し出していた。
 心持ち湾曲した長い手指には、どれも鋭利な爪が備わっており、研ぎあげた刺客のナイフを思わせた。指先から手首に至る皮膚は乳脂のように滑らかだが、目を凝らせばうっすらと鱗に覆われているのが分かる。人と蛇、あるいは猛禽をこきまぜたがごとき謎めいた肢体を覆う漆黒は、外套のようであり、毛皮のようであり、羽毛のようでもあった。
 梟は灰白の手をとって贈り物を握らせた。壊れやすい人間の肌を掻き裂かぬよう、妖魔の手は慎重に爪をそらした。濡れたように冷たい掌に手の甲をくるまれ、灰白は手折られた薔薇に目を落とした。
「まあ、綺麗だこと」
 灰白は思わず屈託を忘れ、ため息を吐いた。
「こんな薔薇は、後宮の正妃様の温室でも見たことがないわ。花弁の一枚一枚が、違う彩りと、違う紋様をしているのね……」
「森の奥の迷宮で見つけたのだよ。一目見て、貴女の花籠に加えたいと思ったのだ」
 目を奪われる灰白に、梟は嬉しげに喉を鳴らした。
「古き魔法で稼働する青銅の獅子が守っていたが、掏り替えるのは児戯に等しかった。あの愚鈍な大猫め、今も気付かずに明後日の方向に目を光らせていることだろうよ。失われた魔術師の手による細工だ――花弁ではなく、蝶の翅で出来ている。花蕊に毒の蜜を滲ませ、誘われてきた蝶を捕らえて、頭と胴をそっくり融かして翅だけ残す。それを無数に繰り返し、唯一無二の薔薇に仕立てあげるのだ」
 仔細を聞けばおぞましいような気もしたが、見せびらかして得意げに囀っている妖魔を見上げると、灰白の唇には仕方なしに苦笑が浮かんだ。
「眼福だけれど、何だか可哀想になってくるわね」
「獅子が? それとも蝶?」
「どちらもよ」
「憐れみ深い、我が親鳥の君よ」
 厳かに妖魔は微笑み返した。
「罪深き魔性の薔薇は所詮、無垢な花瓶の慎ましさを引きたてるものに過ぎない。心に適ったのなら枕辺にでも飾ってくれ。気に入らなかったのなら、この場で灰燼に帰そう」
「捨てなどしないわ。私は何事においても数ならぬ娘、身に過ぎた贈り物だわ」
 灰白は声をあげ、類い稀な薔薇を胸に抱きしめた。
「あなたの持ってきてくれるものなら何でも、喜んで受け取るに決まっているではないの。でも、あまり危ない真似はしないでちょうだい。太古の森の奥深くには獰猛な化け物がひしめいていると聞いているわ。周辺の村人も、真昼ですら近寄らないと。私への土産などのために、あなたが怪我をするのは嫌よ」
 満足げに目を細めていた妖魔は、鼻で嗤っただけだった。
「誰がこの翼に傷一つでも負わせられるものか。風すら俺を避けて吹くものを。貴女のなかで、俺はいつまでも瀕死の嬰児なのだな」
 それに、と物憂く付け加える。
「貴女は、俺もまた森の化け物の一匹に過ぎないことを忘れている」
「化け物ではないわ、心優しいおちびさん」
 灰白は片手に薔薇を持ち、もう片方の手を伸ばし、つま先立って、梟の秀でた相貌にもつれる黒髪を掻きやった。指先に触れる妖魔の額もまた、傷のない大理石のように冷え冷えとして、熱がなかった。爛々と輝く翠緑玉の両眼を覗き、思い遣り深く言い聞かせる。
「私はあなたを、化け物だと思ったことは一度もないわ」
「それならば」
 妖魔の眼差しが、ふと深遠な光を強めた。
「俺に、貴女の名前を教えてほしい」
 灰白は小鳥のように首をかしげた。
「そんなものはもう知っているでしょう。私の名は、灰白――」
「そちらではない」
 樹上に熟れた林檎に手を伸ばす幼子のように、妖魔は乞うた。
「通り名の方ではない。聖別されたまことの名前を」
 灰白は火傷をしたように後ずさりかけたが、梟の魔手はすでになよやかな二の腕を掴んでいた。
「できないわ――それだけは。真名は、持つ者の力を強めもするけれど、魔術的な急所でもあるのよ。いわば鍵のようなもの。己一人の手にあれば堅牢に守りを固められるけれど、奪われれば無防備そのもの。迂闊に明かすわけにはいかないのよ」
「俺の真名は、貴女が名付けたものなのに」
 聞き分けのない駄々っ子のように妖魔は灰白を揺さぶった。
「貴女は、俺の名前を知っているのに」
「ズムルードゥ――どうか聞いて」
 彼のまことの名を呼び、灰白は歯痒げに歪んだ妖魔の頬に手を添えた。
「真名をつけたのは、赤子のあなたが今にも息絶えようとしていたから。ほかに手立てがなかったの。名付ければ、少しでも霊気を吹き込めると思ったから。ただ生きてほしかっただけ。束縛しようなどと企んだわけではないのよ」
「俺も貴女を玩弄するために知りたいわけではない」
「分かっているわ」
「それでも教えられないのは、俺が化け物であるがゆえに?」
 妖魔の囁きに、風のように悲しみがまじった。
「知っている、魔物に秘密を漏らしたがために破滅する人間の御伽噺は山のようにある……」
「いいえ、いいえ、違うわ」
 灰白は懸命に首を振った。震える声で言う。
「聞いてちょうだい。私には、何もないの。何も持っていない。私は、生まれてきてはならなかったの。母は、私を産んだがために、毒を盛られたの」
 魅入られたように灰白は続けた。
「王宮の暗がりで、私もまたいつ何どき誰に殺められるか知れない夜を数えてきたの。人智及ばぬ怪異の蔓延る森を汝の墓所にせよと命じられて、この身の無価値を重ねて思い知ったの。誰も私を保護してくれる者はいない。案じてくれる者はいない。私には何もない。まことの名前だけが、私が私のものと信じられる唯一のもの。最後の砦。なげうってしまったら、もう、何も残らないの」
 灰白は絞り出すように言った。梟は黙り込み、聳える彫像のようだった。
「あなたをこの庭で拾ったとき――死んだ牝鹿のそばで、あなたはもがいていた。森の悪意によって小鹿ではなく魔物を孕まされた鹿が、崩れ落ちた城壁の隙間から這入り込んで、力尽きたのだと一目で分かった。月足らず生まれ落ちたあなたもまた、遠からず母鹿と同じく黄泉路を辿るだろうということも。神々に仕える巫女が妖魔に触れるなど言語道断だと頭では分かってはいたの。許されぬことだと。けれど、羊水と血の混じった泥のなかで、息を詰まらせて悶え苦しんでいる幼獣を、見捨てられなかった。私と同じだと思ったの。この世に生まれてきてはならなかった、母親殺しの孤児……」
 息を吸い込み、灰白は睫毛から涙を振り払った。
「人外の驚異によって、一年も経たぬうちに、あなたは瞬く間に大きくなってしまったけれど、私は克明に覚えているわ。初めてあなたが自分の肢で立ったとき――初めて自力で蜥蜴を狩って私に見せに来てくれたとき。和毛が生え変わって、力強い羽を広げたとき。初めて空を飛翔するあなたを見上げたとき。役立たずのこの手にも救えるものがあったことが、踊りだしたくなるほどに嬉しかった。私の存在が無意味ではないことをあなたは証明してくれたの。初めてあなたが言葉を喋り、私の名前を呼んでくれたとき、私は、この身に流れる血の最後の一滴までもあなたに捧げてもよいと思ったほど――けれども、どうか許して。私は浅ましい。何一つ惜しくないと言いながら、私の魂に記された名前を分かち合うことには卑しく躊躇っている」
 梟はそっと肩を落とした。
「やれやれ、悲しませたくないと言った舌の根も乾かぬうちに。また貴女の眉を曇らせてしまった」
 丈高い身をかがめ、梟は暗い吐息のかよう唇を灰白の目尻にあてがい、水晶のような涙の雫を舐めたが、すぐに身を離した。
「薔薇の一輪ごときであがなえるものでもないだろう。また訪れることが見逃されるならば、真実を言い当てる手鏡――鳥の言葉を解することがかなう指輪――泉水を呼び起こす龍の鱗――何でもよい、太古の森を虱潰しに漁れば、貴女の寂寥の慰めになる秘宝が見つかるはずだ。貴女のまことの名を唇に乗せれば、穢らわしいこの身には至上の甘露となろうが、貴女の苦痛と引き換えでは意味がない。俺はただ、貴女のとこしえの微笑みだけを望んでいるはずなのに、ひととき言葉を交わすだけで傷付けてしまう」
 引きとめる間もなく、妖魔は黒いつむじ風となって飛び去ってしまった。
 月下に立ち尽くす巫女の手のなかには、空虚と、一輪の薔薇だけが残された。忌まわしい異形の薔薇――魔性の蜜に惹かれ、身を滅ぼした哀れな蝶の翅が重なり合う、渇望の残骸だけが。