B01 ―― ス・ガ・ル・テ

 私が姿を見せると同じアパートの住人であり、霊能者でもある杉谷さんは顔をあげて悲しそうな顔つきになった。小さな溜め息の音が、乾いてひび割れたその唇をすり抜けてくる。
「まだ苦しんでるの?」
 黙って頷きながら鉛のように重い腰へ視線をやれば、理不尽な水子霊の濡れて乱れた髪の間から、まなじりが切れるかと思われるほどに見開かれた目が凝視するのだった。
「本当はそこから意識を放して、あなた自身が新しい道を進むことが大事だと思うんだけど……」
 彼女の言葉は鋭く長い氷の針になって胸の奥まで刺さってくる。そして、それが体内から出て行くことを拒むための最善最強の手段だと囁くようにすぐに解け消え、一筋の冷たさを芯にして滞留するのだ。
 私は抗議した。
「こんなの産んだ覚えない! 恨まれたりたたられたりおかしいよ!」
 気の毒そうな光が彼女の瞳の中をすうと過ぎった。
「それがあなたの苦しみの原点だから……。無理もないけれど」
 同情されて初めて、私はいつの間にか荒れてぼろぼろになっているその肌に目が行った。

 自分がいわゆる視える人だということを、彼女が進んで打ち明けることは決してない。
 それはそうだ。こんな気持ちの悪いものが見えるというだけの理由で、こんな気持ちの悪い相談をされるなんて、平凡な生活を愛している人間にとってなんの嬉しさがあるだろう。
 疲れを表に出さないように気を遣って、わがままな訪問に耐えているのがズンとした空気を通して伝わってくるので、いつも自己嫌悪が込みあげてくる。



 彼女に出会ったのは、下半身が自分のものとは思えないほど重くて、家から一歩も外に出られず、真っ暗な空間に閉じ込められたような感覚と、誰にもわかってもらえない絶望にあえいでいた時だった。
“どこへも行かないで。あたしを見捨てないで”
 地の底から響くような不気味な声が、無数の赤子の拳に変化して床から生えそろい、腕やスカートのすそや、髪の毛の一本一本に至るまでを掴んでくる。
 ――そんな幻覚のような苦悶くもんにうなされていた時、ドアチャイムが鳴って彼女が姿を現したのだ。
「引っ越しの挨拶あいさつに来ました、杉谷といいます。お付き合いよろしくお願いします」
 よどみなくさらさら流れるせせらぎのような声が響いた途端とたん、なんの前ぶれもなく立ちあがっている自分がいた。気がついたら、玄関ドアを通ってホールまで迎えに出ていたのだ。
 私へ、というよりは私に取り憑いているものへ目をって、彼女は凍りついたようにすくみ、気づいていない振りをするために素早く視線をそらしていったが、血の気を失って蝋細工ろうざいくの色になった顔を隠すことはできなかった。
 ぶら下がっている化け物が呪いの言葉を吐いた。彼女は視える人なのだ。

 私は追い詰められ過ぎていた。十のえぐれたくぼみを腹部に刻んでいるのが、皮膚を透かして血管や骨が見える十の細指だということを、視認できるのは彼女しかいない。迷惑だとわかっていても、優しさに甘えていつも会いに来てしまう。
 同じアパートの一室とは思えないほど小奇麗に片づけられた部屋々々へやべや。温和に整えられたテーブルやいす、高価ではないが、どこか品良く彼女自身と調和したグリーンのカーテンを眺め、少しいやされたら真新しい短毛の絨毯じゅうたんに座り込んで、同じ話を繰り返す。
「どうしてこれは、私の水子みたいに当然だって顔して、からみついて来るの? 私が母親代わりになって、何もも犠牲にして、それを天上の喜びと心から感じて、ありとあらゆる欲求を完全に満たしてやらないからって、奴隷みたいに鞭打むちうつの? 自分が生まれる前から持ってた既得権きとくけんだと信じてでもいるの?」
 泣きじゃくると、彼女は床に崩れるような姿で頭を垂れた。
 無造作に切り揃えたショートカットの下にちらちら見える肩は、日焼けしている。私はこの化粧気のなさが好きだ。だからまた自分が嫌になって、顔を覆って瞳を閉じてしまう。
「すみません。いつもこんなことばかり言って」
 だけど怖いの、苦しいの、どうしたらいいか知りたいのというほとばしりは、必死で飲んだ。
 彼女だって困っているのだ。彼女だって苦しいのだ。
 こんな堂々巡りの重い話に付き合ってくれるのは、彼女自身が同じ苦しみを知っているからではないかと思うことがある。

 答えをうながす口実も正当性もない。私は窓から差し込む光をただ見ていた。紙切れのように言葉を裂いて自ら巻き散らかした沈黙が、ちりとなってその中を漂っている気がしたからだ。
 こんなことを続けていたら嫌われてしまうと思った瞬間、霊が口を開いた。
“そうだよ、あんたを好きになる人なんかどこにもいないよ。あたしだけを見てよ”
 いつも魂を凍りつかせるこの言葉……。そうだ私は誰にも本気で好かれたことがない。人を大事にする方法を、親は教えてくれなかった。甘え方を知らないから、少しでも良くしてくれる人がいると泣きすがって、醜く依存してしまう。忌々しいこの水子のように。

 しかしみ疲れた彼女の背中から響いたのは、謝罪の言葉だった。
「ごめんなさい。なんの力にもなれなくて。私おはらいとかできない人で。教えてあげた神社にもお寺にも、あなたを助けてあげられる人が一人もいなかったなんて……」
 言葉を失うしかなかった。ぽつんぽつんと呟きを重ねながらゆっくりあげた顔に、涙が道筋を作っていたからだ。

 おそらくもう限界だ。静かにお別れしなくては。
 愚かな私は考えようともしなかった。優し過ぎる人がこんな風に甘えられたら、どんなに消耗するかということを。

 話したいことは山ほどあった。聞いてくれるのが彼女だけだったから。
 迷惑をかけてごめんなさいと言いたい。こんな私のために時間を割いて、自分だって残業続きで大変なのに親身になってくれて。
 けれど会うたび言って言って、言ってるくせに夜中まで話し込むのをやめられなくて、価値なんか擦り切れてしまったごめんなさいを、今さら繰り返したところで何を取り戻せると言うのだろうか。
 軽くすするような声をあげて彼女はポケットをまさぐった。人は息をしなければ生きてはいけないのに、無力感という名の空気が肺の中を出入りして、弱らせてしまったのだろう。きっと愚痴ぐちばかり聞かせたせいだ。

 男すら知らない私の体にまつわりついた霊が、硝子がらすを引っ掻くような嫌な笑いを短く断続的に響かせ始めた。
“ねえお願い。お願いだから見捨てないで……”
 まるで勝利宣言だ。おぞましく奇妙な音程をつけて、いつものようにとなえている。
“どうして助けてくれないの? こんなに寂しいのに。こんなに悲しいのに!”
 この科白せりふを聞かせる時、化け物みた霊は寂しそうでも悲しそうでもない。百歳を過ぎた老人のように顔の面積の全てを細く深いしわで埋め尽くし、恨みがましく歪めたまぶたの間から吸いつくような眼球が笑う。この時こそが生き甲斐、この時こそが最も激しく輝ける瞬刻しゅんこく、まさにこの時のためにこそ存在しているのだと、全身全霊で高らかにうたう。
“幸せにしてちょうだい。それがあんたの義務なの、わかるよね?”
 しがみついた腕の、粘膜のように薄い皮の下を、紫の血管が走行している。私の骨盤に根を張り、腹部に食い込んだ十本の指が作った青痣あおあざから侵入して、子宮の奥までを突き破り、胎内から養分をって脈動するのが見える。
 深く食い込んだ指を引き剥がそうとして、私は狂ったように自分自身を掻きむしった。
「あんたなんかはらんだこともない! 親でもなければ子でもない!」
 天井へ向かって叫んだ途端、彼女は毅然きぜんと立ちあがり、スカートのポケットに突っ込んでいた握り拳とともにジャラ、と何かを引き出した。
 一目見れば僧侶が使うような高価な品だとわかる、大きな玉の長い数珠じゅずが、水仕事で荒れた手に握られている。たて続けにCDステレオのリモコンのボタンが押され、スピーカーから流れ出して来たのは、大音量のお経だった。
「そのとおり……よく言えたね……。ずっと信じて待ってたの」
 いつくしみにあふれた柔らかな眼差しが注がれた。

「その人から離れなさい!」
“何言ってるの、あたし達母子おやこなのに!”
「そんなみじめな言い訳までして、恥ずかしくないの?」
“なんで面倒見てくれないの? なんであたしを捨てようとばかりしてるの?”
 失われかけた力がふ、と戻ってくる。いきどおろしさのあまり反撃の言葉をぶつけようと口を開けた瞬間、嬉しそうな、まなこの輝きが鼻先に現れた。
“ちゃんと知ってるよ。あなたは本当はとっても優しい人なんだよ”
 首だけを伸ばし、私の体を一周して、前髪の間から覗き込んでくる。
 時間が硬直したように、頭の中から何かが抜けた。

 数珠が曲線を作って空を切った。
「この人に頼ってどうするの? もう十分過ぎるほどしてもらったじゃないの!」
ひどい! こんな弱い者をいじめるなんて、あんた鬼だね!”
 ありったけの恨みを込めて霊がえる。低く始まったその唸りは徐々に高くなり、大きくなり、壁をジンジン揺るがせる。
 反射的に耳を塞いだ。私は知っている。この化け物が次に何を言うかを。
 必死で固めた両手をすり抜けて、発情期のような臭気を含んだ声が、冷えた耳に怒気を吐きかける。
“あんたはかわいそうな私を育てるために生まれてきたんだからね”

 我知らず絶叫した。
 逆らえない。
 生まれる前からかけられていたかのような、この呪いの言葉に、どうしても逆らえないのだ。
「気をしっかり持って! 心の底から違うって、全てをかけて否定するの!」
 わかっている。わかってはいるのだ。
 彼女は言った。私自身が新しい道を進むことが大事なのだと。思いった言い方をしているが、真に意味するところは、しがみついて手放そうとしないのは私のほうだということだ。
“一人ぼっちのあたしを捨てて、暗い隅へ追いやって……ね、良心が痛まないの?”

 痛い。
 この揺さぶりは、奮い立たせた勇気や自信に、百千あるかというにごりの腕を伸ばし、いつき、縛り、爪を立てて胸の中から引きずり出して握りつぶし、細切れにして泣き叫ぶ私に見せつける。
“あんたは絶対あたしに逆らうことはできないんだよ”

 追い出したい。
 苦しみながらもこの命令を受け入れてしまう何か。その何かはどこに巣くっているのか。この腕をはがねに変えて肉を骨を粉々に砕き、はらわたを引き千切り、心臓を突き破って手応えで知ることができるものなら、それをしてでも掴み出したい。
「違う! 絶対にできる!」
「そう、信じるの。絶対できるって!」
 必死に抵抗していると、うような感覚が胎内を撫でた。
“あんた気づいてるよね。言うことを聞かないと、この親切な人がどうなるか”
 右の指だけが伸びて私の胴体を鷲掴わしづかみにしたかと思うと、蜘蛛くもの巣のように粘着ねばつき、絡め取り、獲物のように幾重いくえにも幾重にも巻き取った。
“見てなさい”
 視界の隅に、真っ青になって仁王立ちになっている彼女が映った。握られた二つの拳は激しく震えている。

 闇雲に奮われた数珠は、効きはしなかった。ザ、と音をたてて飛んで来た塩のつぶても軽くかわされた。
 それで退しりぞけられるものならば、とっくの昔に勝利していただろう。あざけりとともに、水子は自由になった左手を彼女へ向かって伸ばす。
“なんの力もないくせに”
 木の幹と見紛みまがよじれた腕が、何十何百という枯れ枝のような指が、バリンと弾けて躊躇ちゅうちょなく数珠を吹き飛ばし、細い体を捉え、一刹那せつなで肉体をまとった魂を、中世の拷問具のように穴だらけにした。
 無防備に全身を床へ打ちつけながら、優しいあの人が倒れていく。

「やめて! お願いだからもうやめて!」
 彼女にはお祓いの力などない。最初からそう知らされていた。本当に払いけたければ、自分の意思でと説得された。
 高価な数珠もお経も塩も、戦う姿勢も、ただ一人私を鼓舞こぶするための、勇気を与えるための芝居――危険な賭けだった。

「ごめんなさい杉谷さん。こんなに弱くてごめんなさい」
 静かに別れることはできなかった。傷つける前にと思っていたのに、できなかった。
「――もうここへは、来ません」
 背を見せて去るその時、かき消えそうな弱々しい声が後ろ髪を引いた。
「待って水本さん、諦めないで……」

 水本さん。
 ああそれが自分の名字だったのだと他人事のように聞きながら、私は階段へ足を引きずり、表札が掛かった部屋へと戻った。



 家具まで染みついた線香の臭いに迎えられれば、いつも全身が重くなる。
 コンビニ弁当のからやチラシや、薄墨色うすずみいろの枠がついた葉書や封筒で雑然と散らかり、テーブルにも戸棚にもテレビにも、キッチンの流しにも、べたついた汚れがこびりついているというのに、荘厳そうごんと言っていいほど大きくお金がかかった仏壇ぶつだんは、隅々まで磨き抜かれていた。
 その前にちょこんと背を丸め、いつ洗濯をしたのかというほど古びた鼠色ねずみいろの、ごく薄いセーターを着た女が、私の位牌いはいに手を合わせている。
 先程の敗北宣言で満足したのか、卑しいしわで顔中を覆った霊が、すう、と女の体の中へ戻った。

 いつもの呪詛じゅそが口から漏れる。
「どうして先に逝っちゃったの? ね、どうして逆縁なんかでお母さんを苦しめるの? こんなに寂しいんだよ? こんなに悲しいんだよ?」
 鈴棒りんぼうをつまみあげ、おりんを叩いてチーン、チーンと執拗に鳴らす。
「あの杉谷って人、親が悲しみ過ぎるとあんたが迷ってあの世へ行けないなんて……情けも何もない人だよね? いつまでも子供と一緒にいたい親の気持ちなんて、母子おやこの絆なんて、何もわかってないんだから」
 ――何もわかって、いない。
「お母さん、ずっとあんたが一緒にいてくれればそれでいいの。ただそれだけなのに」

 ありとあらゆる罵声を浴びせ、気に食わなければ暴力を振るい、うつになれば恥しくて人には見せられないと言って閉じ込め、鍵を掛けた女。
 私は衰弱して、気がついたら肺炎で死んでいた。
「かわいそうに、面接でたった一回落ちただけで引きこもりになって……こんな不況なんだから気にしないでって、言ったのにまじめ過ぎる子で、手遅れになるまで部屋にも入れてもらえなかったの……」
 涙を流し、うなだれて同情を買った女は、生き霊になって死んだ我が子に取り憑いた。
「生きてる間はなんにもしてくれなかったんだから、せめてずっと見守っていてね。お母さんを助けてね」

 私は意を決して近づき、鈍感なその耳にけがれの息を吹きかけ、囁いた。
“心配しないで。ずっと一緒にいてあげるよ”
 丸めた背にのし掛かり、全力を込めた両腕を巻きつけ、手の平で首を包み込めば、長く長く指が伸び、裂ける音をたてて枝分かれし、喉元へと食い込んでいく。
“それにはまず、その反吐へどが出るような恨み言を潰さなけりゃね”
 グ、と呪詛に詰まって女が口を押さえ、激しく咳き込み、水を求めて立ちあがろうとした。
“重くなれ、重くなれ”
 ぶわれながら笑って念じれば、ぐらんと揺れて視界がよろめく。
“あんたはかわいそうな私を、幸せにするために生まれてきたんだからね”


 私は今の私の顔があの生き水子――母にそっくりだということを知っている。