B02 フーガには二つ星を連ねて




 これはあの時、あなたの手を取れなかった僕の物語。



 僕の名前はフレイ。 ジュールノアのフレイだ。 つかのまとはいえ、どうぞよろしく。
 お互い、ついてないですね、こんな何もないところで、雨に降りこめられて立ち往生だなんて。
 お宅はどちらへ? ……ああ、バリルノア!
 知っているもなにも、十代のころはあそこで過ごしたんです。 良い町でしたよ。 近くにうっそうとした森があって、遊び場にしていました。
 要するにあのお守りの山は、バリルノアでひと稼ぎしようっていうわけだ。 確かにあそこじゃ、厄除けのたぐいがよその倍はいり用ですよ。 なんたって、マアグの古塚があるんだから。
 聞いたことがない? そうか、外の人はあんがい知らないのかもしれないな。 あそこの人たちが信心深いのには、ひとつ理由があるんです。 どれ、退屈しのぎに昔がたりでもしましょうか。

 バリルノアの東には、手つかずの森が広がっている。 クルミやナラの木がおいしげったゆたかな森だが、あの薄暗い茂みに豚を放すような人はまずいないし、木の実やきのこの季節でも、あそこから失敬しようなんて、バリルノアの人間は思わない。 だって森の最奥には、マアグの古塚が鎮座していて、森はその主にささげられているんだから。
 マアグとは?
 ジュールノアの古老のいわく、マアグは祖父の祖父の祖父の時代に生きた戦士で、バリルノアで死して東の森に葬られた。 ところがその後もたびたび墓から出てきては、あたりの土地を自分のものと主張して、塚のまわりの住人を、他人となく親類となく殺してまわった。 マアグの体は墓から出るつど醜く膨れ上がっていき、押し戻すには塚をひとまわりずつ大きくしなければいけなかった。 しかも、その指の触ったものは鉄も草木もたちまちに腐り、家畜はその姿を見ただけで病気になったという。
 バリルノアの住民は、ついにマアグを五つの部位に切り裂いて、五つの玄室と塚の出口に、重さがじつに七ファルガンという大岩を置いた。 しかし塚を閉じるとき、人々が呪いの言葉を聞いたので、森の実りを刈るものは、同じだけのものを取られることになってしまった。 ともあれやっと、マアグは二度と出てくることが無くなったそうな。
 そんな伝説があるからして、なにか災い事でもあれば、人はマアグの祟りだと言いはじめる。 子どもたちには「悪さをすれば夜にマアグが連れに来るぞ」と言い聞かせるのが習わしだ。 東の森には道もないことだから、今もなおマアグのものというわけだ。

 ところで、子どもというものは、行くなと言われた場所に行くのをひとつ義務としている節がある。 ことに齢十二、三といえば、肝試しをせずして何をするか。
 いやいや、やむにやまれずのことなのです。 ジュールノアのフレイにも、勇気を示さねばならない時があったわけで。
 フレイは、新参者だった。 商売を広げようという父について、バリルノアに越してきた。 そのころは丈も低くて、柳の小枝のようなかぼそさで、巻いた赤毛がワタゲのように頭のまわりをふわふわしていた。
 それらを踏まえて近所の子らがつけたあだ名は、小ハタキ。
 一文字たがわず小ハタキ、と。
 アカスソチョウの赤い赤い飾り尾で作る手のひら大の毛ハタキは、あのあたりに普通の掃除用具。 彼はそんな不名誉なあだ名には堪えられなかった。 つまり、その名で呼ばれるたびに、相手と取っ組み合いのケンカをした。 もちろん勝てやしないのだが。
 しかしそうやって殴られた方は、絶対に小ハタキと呼んでやろうと思うらしい。 もはや意地の戦いだった。 これでは事態は変わらない……そう思ったフレイは、こんなことを申し出た。
 なにかひとつ、彼に試練を与えてほしい。 それも彼らがおののくような、大それたことを。 やってのけたあかつきには、その勇気にふさわしい名前で呼んでくれ、と。
 子どもたちは条件を呑んだ。
 かくてフレイは、マアグの古塚におもむいて、塚の門を飾るという氷紋石の切り石のかけらを持ち帰らなければならなくなった。

 もちろん、勝算もなくこのようなことを言い出すもんか。
 フレイには切り札があった。 ジュールノアの旧い友だちが餞別にと教えてくれた、とっておきの秘密の業が。
 実を言えば、それには「人生に一度の大事のために」という前置きがあったのだが、このころの彼には目の前の窮地がいつだって人生で最大のものに見えたんだから、しかたない。


 不意に夏がよみがえったような、生ぬるい夜だった。 フレイは見送りの少年たちに囲まれて、森の手前の、浅い小川がぴしゃぴしゃとひそめくあたりまで送られた。
 晩秋とはいえ、森には入り口などというものはない。 隠して持ち運んだランプから松明に火を移すと、渡りやすいところから川の向こうへ押しやられた。
 彼にゆるされた持ち物は、松明と、お守りにしていた角笛と、小さなつるはしなどが入った背負い袋がひとつ。
 誰かがささやき声で「見つかる、早く行け!」とせかした。 フレイは言われたとおり、急ぎ足で森の中に入っていった。

 手にした鉈で下草を払っても、始終、意地わるく裾を引かれていた。 森のそこここで、枯葉の落ちる音や獣の駆ける音が、クスクス、クスクスと笑っていた。 フクロウがあたりを掃くような大声で、闖入者を追い払おうとしていた。
 暗闇で聞く足音はいつでも勝手に増えていくかのよう。 クモの巣が頭にまといつくたび、それが誰かの指に変わるかのよう。
 けれどそのにおやかな混沌を、心躍らせるものに感じていたのも確かだ。
 角笛を握りしめながら、フレイは森の奥をめざしてやみくもに進んでいった。 誰からも見られないところへ。

 やがて彼は、意にかなう場所を見つけた。 巨人が地下から這い出るために地面を裂いたような沢だった。 地面から突き出ては地中に戻る木の根が、おのずと階段を作っていた。 フレイは足元を確かめながら、裂け目の底へ降りて行った。
 沢のまわりはごつごつした岩場で、石の下を水が流れていた。
 フレイは石のひとつに腰をかけて、角笛を首から外した。
 これこそ、彼の導べ石。
 一見すると、小ぶりな雄牛の角に似ていた。 三日月型の曲線を撫でれば、年輪に似たわずかな凹凸を感じとれる。 骨の白さは松明の火色を写して人肌のように染まっていた。
 ジュールノアにいた旧友は、「いよいよ事に窮したら、誰からも見えないところへ行って、この角笛を吹くのだよ」と言い含め、彼にこれを握らせた。
 フレイは深く息を吸い、角笛に口をつけ、松明を石の隙間に突きさした。
 夜が押しよせた。 月あかりは遠く、狼の祝歌が長くひびいた。 抗うために、フレイは角笛に息を吹きこんだ。
 張りのある高音があたりの闇をふるわせた。 森が身じろぎするのを肌で感じた。 肺腑の空気を吐きつくして、次の息を吸いこむ。 ふっと、ぬるい空気に熟れた果実の甘さを嗅いだ。
 いつの間にやら足元が明るい。 あえかな萌黄色の光が、染みだすがごとく岩の間を満たして、もうもうとたちのぼっていた。 気付けば沢全体が、上等の絹地を振るようにゆらぐあやしい緑に染まっていた。
 驚いているフレイの手の中で、角笛は崩れさざれてさらさらと指のあいだからこぼれ落ちた。
「揺りかごの隣で角笛を鳴らすのはだれ?」
 まろやかな低い声がしたのと同時に、背後から白い腕が伸びてきて、フレイの頭をかき抱いた。
 フレイは、自分を背後から抱きすくめたモノの顔を見た。
 黄緑の光に染まった白い髪、白目が黒く、黒目が白い異様な眼の、少女? いや、額の右側の生え際から、落ちかかる髪の筋を割って、ねじれ曲がった一本の角が伸びていた。 その肌から年ふりた木々のうつろな日陰の香りがした。
「働き蜂の羽音がする。 甘い蜜の香りがする」
 それは紅引く唇でにんまりと笑った。
 鋭くとがった犬歯がのぞき、言葉を繰りだす舌は二股。 笑みくずれたその目はまたたきもせずにフレイの目をとらえていた。 銀糸のとばりで、世界のすべてを覆いかくして。
「きれいな目……。 むかぁしアチの射落とした星が、こんな風に光ったっけ。 その星が落ちて燃やした松は、ウープルフの岩場にまだ佇んでいるそうな」
 視界の外で、首筋を冷たい指が撫でていく。 刃物を滑らせるような感触だった。 森の者との交わりは、生と死のふちで舞うようなもの。
「星の火があかあかと燃えているよ。 われらの角を吹くものが、ただ人であったことなどないけれど……」
 秘密めかして、少女はささやく。
「森の角を吹いたのはだれ?」
「アチの星が角笛を吹いた」
 森の者と語らう時の、侵すべからざる約束が三つ。
 ひとつ、名前を知られないこと。
「なにがほしくて角笛を吹いたの?」
「マアグの古塚の氷紋石のかけらがほしい」
「それをあげたら、何をくれる?」
 ひとつ、必ず返礼をする。
「今年生まれの仔羊をあげる」
 少女はにやにやと笑いながら首を横に振った。
「森の獣はすべて私の父のもの」
「それなら、金のボタンをあげる」
「金も宝石も、塚の中には捨てるほど」
 少女はうっとりと目をほそめた。
「私はまあるいものが好き、私はあたたかいものが好き、私は光るものが好き。 何が言いたいかわかるでしょう?」
 フレイは、このように答えるしかなかった。
「それなら、僕の右目をあげる」

 かくして、フレイの右目はそのヒトのものになった。 そしてそのヒトは、約束どおりマアグの古塚の氷紋石をフレイにくれた。
 おかげで彼は小ハタキの名をまぬかれて、勇敢なフレイと呼ばれるようになったとさ。



 おっと、教会の鐘が鳴った。 午後の礼拝が始まりますね。 どうぞお先に。 僕は、部屋の聖書を取ってから追いかけますよ。



 ああ、確かにフレイは勇敢だった。 こわいものなどこの世になかった。 子どもの純真はいともたやすく新たな世界を受け入れる。 新雪に滴った血が、どこまでも血の色をしているように、鮮やかな色ほどうつくしく彼らの上に落ちる。 さればこそ彼らは――彼は、その色に目を奪われていた。

 フレイがマアグの古塚に赴いて、なお生きて戻ったと知ったとき、彼らにとって東の森はおそろしい場所ではなくなった。 彼らはその茂みで山ブドウをつまみ、小川に雑魚を漁り、古塚の上から木の板で斜面を滑りおりた。
 ついにそれらに飽いた時、彼らは塚の中に未知をもとめた。
 それには入り口を塞ぐ七ファルガンの岩が邪魔になる。 けれど雄牛一頭を一ファルガンとするのだから、少年たちが動かすことなどとてもとても。
 すなわちそこは、勇敢なフレイの出番だった。
 マアグの娘は角笛がなくとも、フレイが森へ入ればいつしれず現れた。 森を知悉したかのヒトをしるべに、フレイは誰よりも早く、実をつけた木や、魚の蝟集する渕を知った。 フレイがふいに離れていなくなるのは、仲間たちも含んだうえでの森遊びだった。
 フレイは森に愛されている。 森でなにか欲しいものがあれば、フレイにそれを伝えればいい。
 しかし。
 勇敢なフレイは崖から落ちた仲間のために、左手をマアグの娘にあげた。
 勇敢なフレイは水におぼれた仲間のために、右手をマアグの娘にあげた。
 勇敢なフレイは道にまよった仲間のために、両足をマアグの娘にあげた。
 勇敢なフレイは決闘に勝ちたい自分のために、はらわたをマアグの娘にあげた。
 勇敢なフレイには、新しい遊び場を得るために、渡せるものが何もなかった。
 左目はずっと昔に売約済みだったから。 フレイの旧い友だちは、この左目と引き換えにいつでもそばにいてくれた。
 でも、この場のだれがそれを知っている――?

 おろかなフレイは、マアグの娘に古塚を開くよう願った。
 それを聞いたマアグの娘は、一寸困りはてたように笑った。
 やけに甘くリンゴの花が香る日だった。
 狂い咲いた雪のように、柳絮が視界をぼかしていた。
 そのなかにあわやかな微笑みとやわい声とを溶かして。
「アチの星、きみにはもう、きみの名前しかないのに」
 瞬きで、いつもの赤い唇を引き上げる。
 フレイは答えた。
「僕はまだ、左目をあげるとは言ってない。 あなたはまあるいものが好き、あなたはあたたかいものが好き、あなたは光るものが好き。 そうでしょう? マアグの古塚を開けてくれたら、あなたに僕の左目をあげる」
 若葉の湧きたつ緑の下で、春のしたたる光の中で、フレイの目の前に立つヒトは、黒い混沌の瞳を伏せた。 白いはなびらがこぼれるように頬を伝った。
「きみはその目を、ジュールノアの古窪の主にくれると言った」
 冷えた声が、耳朶をつつんだ。
 森の者と掛け合う時の、三つ目の約束は。 決して嘘をつかないこと。
 次の瞬間、フレイの右目はマアグの娘に掴みだされて、取られていた。 フレイは仰向けに押し倒されて、そこからは、何が起きたか定かには分からない。 フレイの腕、フレイの両足、フレイのはらわた、あげると言ったものが全部、全部、引き裂かれて取り出されて、かのヒトの膝に抱えられていた。 かのヒトは最後に、フレイの左目を取りはずした。
 熱い痛みに焼かれながら、冷たい指につままれた目玉で、フレイはかのヒトを見ていた。
 かのヒトがフレイの見る前で唇の紅をぬぐった。 その手が白い髪を梳くと、ゆたかな長い髪は見るまに短くなった。 顔を撫でれば、目鼻や眉の位置が変わる。 魔法を解かれてそこにいたのは、フレイの旧い友だった。
 亡霊の娘であった少年は、昔のままに、莞爾として。
「きみの光をあいしていたよ、アチの星。 これはずっと前から私のもの。 きみの目も、きみの腕も、きみの脚も―――きみに残るのは名前だけ。 それもくれる気になったなら」
 かのヒトが自分の角に片手をかけた。 聞こえない耳に骨がくだける音が届いた。 角が外れて、白い指に握られていた。
 二股の舌がいつくしむように左目をなめ、フレイの目はそれを最後に見えなくなった。
「いよいよ事に窮したら、誰からも見えないところへ行って、この角笛を吹くのだよ」
 まなうらの闇にかなしい声がたゆとうて、消えた。
 フレイは誰もいないあの沢の岩の上で目覚めたけれど、そばにあのヒトの姿はなく。
 フレイは二度と、東の森に近づかなかった。



 おや……教会へ行かなかったんですか?
 実は僕も、御免こうむるつもりでね。 僕のような者は、教会には向きません。
 僕にはもう、この名前きり、あのヒトにあげられるものが無かったんだ。 そしてそれを認めることすらできないほどに、臆病でした。
 さて、もう僕は行きますよ。
 ああ、ああ、雨がこんなにも強い。 道の向こうも見えやしない。 まるで銀の幕を下ろすようです。






 お帰りなさい、アチの星。
 あれは、きみにこの手を取らせなかった私の物語。
 私は魔物とうそぶきながら、きみを食い尽くすモノにはなれなかった。
 それでもきみが帰ると知って、会いに来ずにもおれなかった。
 これは、かたみに腕をさし伸べることをやめられない、私たちの物語。