B04 マリー・アントワネットの手を取って


 たとえばシャルロットとかテレーズとかだとか。もしそんな名前だったら、なんて考えちゃう時もある。
 たまに、たまにはよ。違う名前ならってちょっとでも考えはするけど、もしあたしの名前がいまさらくるっとちがうものになったら冗談じゃないって思ったりするし、だけどあたしはあたしの名前じゃない名前にうんざりするほど憧れたしって頭をぐるぐるさせながら、ママンのドレスと下着とガウンがしこたま吊り下がったクローゼットのかったい背板と香水のニオイに今夜もくらくらよりそう。あたしはあたしの名前が嫌いじゃなくてでも好きくなくて、別の名前だったらとか思ったりして、だけどママンにアンってふわふわ呼ばれるのがやなわけじゃないの。
 歓楽街はじっこの橋の近くのアパルトマンの二階の寝室のクローゼットで、扉の隙間からもれる酒飲みの声やヒールに反射するちっさなシャンデリアの光にうんざりうとうと刺されながら朝まで寝ちゃうあたしには、ちょっとそういうメランコリックは都合が悪いってだけ。だけだったのよ昨日くらいまではね。
 だから!
 ねえ、ねえねえわかるでしょ、わかってね。だからちょっと黙ってよ。あたしはどうしたってママンのアンなんだから。
 そうやってあたしが袖をひいても、男は静かに「黙るのはおまえだよ」って、「フロイライン」って、あたしの名前じゃない名前であたしを呼んだ。月も曇った熱帯夜だった。
 別によかったの。ママンのシンミツなオトモダチがゴキゲンナナメなのって事で、クローゼットからひっぱりだされて外の運河に窓から放り投げられたって、それこそ打ちどころとか悪くったって死ぬわけじゃなかったんだから。別によかったのこれくらい。
「でもおまえまだちっさい女の子だろ。ななつかやっつか、それかむっつか、だいたいたぶんそれっくらいの」
 ホーテイでコーギするみたいに、ママンのお気に入りの口調でつらつら語ってみせたって、彼は夜空の星までおっこちてきそうな水の上をいく小舟を、ぎしぎし進める手をとめなかった。ちっさい女の子ってなに。だからなんだってわけ。バカじゃないの、バカなんだわ。こういう手合にはハッキリしないとどうにもなんないから、あたしは男のシャツの裾を引く。びしょびしょの顔と、こいつに水の中から引き上げられて着せかけられた乾ききらない上着と、あとはそのしたの寝間着から伸びているちょこんとした手足を夜風にさらして、まったく不自由ったらありゃしない。あたし誰にもいわないから。あんたが運河を夜中に渡ってる事も、さっき言ってた門を越えるって話も、全部忘れるし言わないからさ、あたしをあたしじゃない呼び名で、知らない名前で、呼ばないでよ。
「おまえはフロイラインで似合ってるよ」
 だけど案外若そうねって事しかわかんない男は、あたしの声なんて全部さえぎっちゃって、舟を進めて、とうとうあたしをおろさないまま街の境までついちゃった。あたしはママンのとこに帰らなきゃって焦ったけど、奴はおかまいなしにゆうゆう街から出ていった。あたしのちいちゃな手の指を、案外痩せて骨ばった指と絡ませて、力加減なんてしらないでつなぎ留めたまま。
 そいつの髪の色は褐色と金がくるくるまざってて、そいつの目の色なんてあたしとちょっとお揃いの青い目、してて、わりと猫背だったりするのに背は高くって手足は長くて指は綺麗にまっすぐすらりで、あたしはなんだかよくわかんないうちにピアノ弾きだって名乗るそいつのよくわかんない旅にくっついてく事になった。
 馬車に揺られてね、川辺も山ぞいも渡って渡って国中あっちらこっちらぐるぐるぐるって。……ほんとに久しぶりにあたしにソイツは、かわいくてふわってした袖の、それで糊のきいてぱりっとしててかわいい裾のねお洋服をね、あつらえてくれたの、ちょっと嬉しかったから。それに、上等なシルクなのかなんなのか、わかんないけどすべすべつやつやな布地の手袋だって、不格好だけど不器用だけどやさしくやさしくあたしの火傷でちょっとひきつれた手にはめてくれたから。
「おとぎ話のお姫様たちの可憐な裾を、狼の爪で綺麗にちぎって、そうして仕上げた魔法の品なんだ。貸してあげる。身につけた人を、手袋の持ち主の望む、どんな姿にもしてくれる」
 手袋はぶかぶかだったけどあたし、そういうおとぎ話はちょっと好きだったの。好きだなって思ったちょっとだけはつきあってあげる事にしたの。そうなの。
 いつかパーティーからふらっと帰ってきてくれたママンが、あたしの方になげてよこして、きまぐれにすこーし試させてくれた綺麗なレースの手袋には届かないけど。でもだって。もしかして、あたしがこんな名前のまんま、今のあたしみたいなあたしじゃない素敵なあたしにずっとずーっとなれるかもなのだわって思っちゃう。
 それにあたしがママンにだっこされてあちこち街中巡ったりするのとは違って、二本の足でてくてく歩いてみるって事は? いろんな土地を次々ふらふらって、そういう事ならよ? ママンのとこに帰り着く機会も、そのうちやがては? ってあたしはお利口なので考えるわけなのだわ。
 ユーカイされて連れ回されても、それならなんだっていうわけかしら。べつに移動中にぱくってするサンドイッチはまずくも嫌いってわけでもないし。けどもあたしはサンドイッチの中身については考えなさいよね、とは思ったりするのだ。だってちっさな女の子っていう存在には、まだまだ強いビネガーのピクルスはきっついの。
 とか、ゆるふわくるんってした前髪の間からあたしを眺める若い男に訴えると、奴は「ごめんよ」ってにこにこ笑って、あたしが交換させたピクルスたっぷりのチキンサンドを綺麗に頬張ってみせた。手元のカフェを口に運ぶ前にむせる。バカだった。
 夏だった季節が二度目の秋に変わっちゃった一年と三ヶ月くらい、あたしとアナタは、つまりママンのクローゼットから真夏の夜の逃避行に連れ出されたあたしと、もう現実に足ついてないピアノ弾きのアマデウスだとか名乗る男は、あちこち旅ばかり。あたしはアマデウスの事情なんて知らないし、ママンのとこに戻れる日々を虎視眈々って感じだけど、なんでかこいつに付きあって国中ぐるぐる。たまにあたしたちに声をかけてくる有象無象には、歳の離れた兄妹だよってアマデウスがころころ笑う。そういう間抜けな人畜無害さのせいかおかげか、今のとこ見咎められてはない。
 ねえだから。
 今日はカレー海峡を見て。来月にはたぶんオルレアン。ずっと前にはリヨンだったかボルドーだったか、それでいつかにはセーヌ川だってさかのぼったり?
 あたしとアマデウスは来る日も来る日も、フランスのあちこちをぐるぐるぐるぐる。あたしはその間、アマデウスにイタリア語や英語やもちろんフランス語の上品だったり下品だったりなお喋りを片言からひとつずつ仕込まれたり、音楽や数学の話やお裁縫やお料理のやり方や、世間の高名なお歴々の血筋や領地や政治の話やそういういろいろをおぼえこまされたり、それかお姫様みたいなテーブルマナーから適当な給仕の作法、ペンの持ち方、ピアノのヴァイオリンの奏で方、手紙の書き方百通りやらのオベンキョウで大忙しなのだったの。
 おまけに夜中に見知らぬお友達を訪ねて酒場に行くにも、どこぞの広場まで閲兵式を見に行くのにも、何十人居るんだかな姪と甥とかの親戚だか旧友だかなんだかを尋ねて各地の修道院を渡り歩いたり、葡萄畑をえんえん歩いたり街の高級店にちょっと入って奥の個室でお喋りだけして出てきたり、貴族や商人のサロンに呼ばれてピアノの演奏してお金をたくさん手に入れたり、大学の誰か偉い先生に会いにパンテオン・ソルボンヌにふらふら迷い込んだりするのにも、いつだってアマデウスとあたしは右手と左手を繋いでたんだもの。だんだん薄くなった火傷のあとを覆うおとぎ話の素敵な手袋越しに、あたし、アナタの事なんだって知ってるって信じてた。
 アマデウスのお守りもお供も忙しくって、アマデウスの教えてくる知恵の数々はどっさりすぎて、やっぱりママンのところにはなかなか帰れそうもなくって、タメイキつく日もちらちら減って。もしかしたらあたしこのままアマデウスとずっと一緒なのかしら? そう思う日もある。
 あとは隣のベッドのアマデウスのお喋りを聞きながら眠る夜も、時にはね。
 アマデウスの生まれた場所の話、お姉さんのお父さんのステキなピアノの音の粒の話、あんまり好かない人たちの話、きらきらしたパーティーで出会った、彼の初恋の女の子の話だってなんでもかんでも!
「アナタそのお姫様と結婚できなかったんでしょ?  だってそうでなきゃ今頃かわいい初恋の花嫁さんと楽しく踊ってくらしてるはずだわ?」
 そんな風にあたしが聞くと、そのとおりってアマデウスは囁いたんだわ。
「その娘さんは求められてこの国にやってきたけど、最後にはこの国に捨てられちまった。俺と結婚してたら、俺のピアノの伴奏で毎日歌ってくらせたのにな! でなきゃ何年も何十年も手を取り合って、踊ってたってよかったな、おまえの言う通り。泣きたいくらい残念だ」
 あたしは何度も何度も、女帝の御前ですてんと転んで泣きそうだった少年と、そんなアマデウスの手をそっととって助け起こしてくれたのだっていう、誰より心優しい少女の初恋と、実らなかった求婚の話を聞いたけど……一度だって、こう返す事はなかった。
「誰より優しい女の子がいなくったって、今はあたしがいるじゃない」
 そんな言葉、吐かなくって本当によかった。いつだっていつまでもそう思う。
 だって結局、あたしはアマデウスとさよならをする事になったんだもん。ううん。たぶん捨てられたんだわ。あの熱帯夜にあたしの事を助けようともしてくれなかったママンにだけじゃなく、手袋をはめた手と手を繋いだアマデウスにも。
「さよならしよっか。もうおまえは必要ない」
 皇帝ナポレオンの名の下に戦争も途切れないパリの都で、あたしはやっぱりよくわかんない放蕩が激しくなってきたアマデウスに、ある朝突然そう言われた。
 あの真夏の真夜中から十年たった今では、アマデウスのほわほわ優しい顔も少しは年をとって、十年前には整った母国語もおぼつかなかったあたしは、今はもうそうじゃない十七歳になっていた。
 あたしはたくさんのなんで? と、バカなの? をぶつけたかったけど、アマデウスは口論を許さず、さっさと宿を出て行った。その頃、あたしたちが兄妹だなんて嘘はだんだん人に信じられなくなってきてて、前の夜に食堂では、駆け落ちもんかってからかわれたりした、ところで。
 あたしは泣きもせず、その日のうちに残された荷物を抱えて宿を引き払った。アマデウスと繋がなくなった手には、もう年月を経て薄汚れてしまった、あのおとぎ話の手袋をはめてはいなかった。一週間のうちに住み込みのお針子の仕事を見つけて、一ヶ月して仕事にも慣れて、二ヶ月してお得意様にも仕事を気に入られて名前もおぼえてもらった。
 その頃だんだん冷静になってきたあたしは、やっと世間に耳を傾けた。次々漂う戦争の気配。情報を流したとか、国に不利益をなしたとかで検挙されていく裏切りものたちの噂。軍が、国中のあちこちに、国内外の政治家や貴族や聖職者の手で仕込まれた諜報網を排除しようと躍起になってるって話。
 今ならわかるよ。アマデウス。ちょっと耳慣れてて珍しい音楽家の名前を偽名に名乗ったあなたも、随分いろんな活動を、この国でしていたんだろうなって。小さな妹の存在は少しはましな隠れ蓑だったし、物事を教え込めば多少の助けにも、たまにはなってたんだろうなって。
 アナタの行方も正体も、今もまだあちこちで活動してるのか潜伏でもしたのか検挙されたのか逃れたのかも、生死も何もわかんないけど、今なら、わかるよ。
 それでもあたしはたぶん、そういう嘘まみれの十年に怒らないだろうなって思いながら今日も針を黙々と動かす。蓄えを築く。ひとまずは戦争、検挙、それから独り身の不安定さ。そういう嵐が過ぎ去るのを待つ。
 声は上げない。だってたとえば別れ際、こんなにこんなに腹立たしくって、それでも賢明な魔法をアナタはのこしてくれたんだし。
「それじゃあね、マリー。マリー・アントワネットなんて、大仰な、有名な、そしてやっぱりどうしたって今じゃまだまだ不吉な名前の女の子」
 ――悪ふざけの賭けに負けてそうつけたんだってママンが言ってた、民衆が今日も好いてはいない、前世紀に処刑された王妃の名前。
 そんな名前しか持たないあたしに、あなたがはめてくれたあの手袋は、荷物の中に今でも眠ってる。
 あたしを妹だなんて呼ぶアナタの言葉が一度も疑われなかったのがおとぎ話の魔法の効能でも、くるくるの髪の手触りが素敵な優しいアナタの人柄のせいでも、そういう人物を演じてたのだろう彼の狡猾さのおかげでも、そうだとしてもなんでもいい。なんでもいいの。
 後悔しなさい、嘘つきの誘拐犯。アナタが何者であったとしたって、それでもアナタはあたしの魔法使いなのだわ。名前を借りた音楽家の人生すら初恋すら自分の過去みたいにあたしに語って、幼いあたしがもてあました名前をそもそも持ってたお姫様を、誰より優しい少女だなんて言って、何年かすればすぐにバレる言葉でころっと騙したバカな男!
 あたしは、あたしはマリー・アントワネット。革命に反対してフランスを捨てようとして市民達に嫌われて、それでもかわいいくてかわいそうなってアマデウスが語る処刑台に上がったマダムの名前をつけられた、なんにも知らなかった、今じゃなんでもかんでも知ってるなんて言えやしない女の子。
 それでもあたしはママンのおもちゃで邪魔者なちいさな女の子じゃなくて、彼のフロイランだった妹で、今はパリのお針子であって、そのうえいつか女優にも娼婦にも花嫁にも家庭教師にも給仕にも修道女にもピアノ弾きにも踊り子にも! ええそうよそれこそ気高くて綺麗な貴婦人にも! なんにでも。なんにだってなれる少女になれた! なれたのよ、そういう娘に! 持てたのよ、そういう矜持を! そしてそういう事をきちんと教えてくれたの、まだアナタひとりだけなのよ、嘘つき男。
 アナタがあたしにくれたおとぎ話の品物と知恵、そういう贈り物みたいな全てを培った魔法めいて残酷な時間が、善良かなんて本物かなんて正しいかなんてどうでもいい。
 幼い皇女殿下が、神童だった音楽家の手を取って助け起こしたのも、今はもう昔の話。嘘つきなピアノ弾きが、お嬢様なんて呼んだ女の子の手を取って国中を巡ったのも、今はもう。
 いつだって誰かに都合よく育てられてきたあたしは、神様の寵児
アマデウス
の置いてった全てを明日も手繰って、お嬢様フロイラインでも最後の王妃マリー・アントワネットでもなんでもかんでも飼い慣らして、この嵐みたいな時代の先を、なりたいように生きていく。