B05 赤い手 白い手

赤い手

 高台にある大きな屋敷を知らない者はこの土地にはいないだろう。見上げるほど大きな門の表札に書いてある岩切の名は子供でも知っている。いくつもの店や工場を経営する名家で、ぼくの母も岩切の工場で働いていた。給料はあまりよくないらしく母との二人暮らしは慎ましいものだった。
 小学校卒業まであと半年というときに母が倒れ、冬を待たずして亡くなった。近所の人たちのおかげで何とか母の弔いを終えた後、ぼくの父親の使いだと名乗る若い男がやって来た。物心ついた頃からずっと母と二人暮らしで、近所の人からも父親の話は聞いたことはなく父親は死んだものだと思っていた。
 身元を明かさないまま父親の元に連れて行くという申し出に止める人もいたが母の他に身寄りがないぼくに他に選ぶ道もなく、わずかな身の回りの物をまとめて見知らぬ男についていくしかなかった。
 連れてこられたのは岩切の屋敷だった。
 父はこの屋敷の使用人でぼくも住み込みで働くのかと思ったら、父親として引き合わされたのは白髪交じりの岩切家の当主その人だった。
 ぼくは岩切の隠し子だったのだ。
歓迎されていないことはすぐにわかった。十分な食事と清潔な服を与えられ広い部屋も用意された。使用人たちのぼくに対する言葉遣いも丁寧だったが態度はいつも素っ気なかった。
 嫌がらせも頻繁にあった。持ち物がなくなりあとで庭のあちこちから見つかることがあった。ぼくがいない間に部屋中に水をまかれたり泥だらけにされたこともあった。ぼくは周囲に訴えたが「こんなことをしてはいけませんよ」と注意されるだけで取り合ってくれず、そのうち屋敷の中で物がなくなったり壊れたりするとすべてぼくの仕業だとされるようになった。
 一時は逃げ出すことも考えたが、耐えられたのは半分だけ血がつながった妹の鞠子がいてくれたからだ。嫌がらせを受けて一人で落ち込んでいると一つ年下の妹は必ずやって来てぼくを慰めてくれた。
「ごめんなさい。でも純一郎兄様を悪く思わないで」
 ぼくに嫌がらせをしているのは十才年上の兄らしい。実際にその場を見たことはないが鞠子の話では兄の純一郎は自分たちの母親が早くに死んだのはぼくの母のせいだと思っているらしい。岩切家当主の正妻は妾の存在に思い悩んでいるうちに病にかかり亡くなったので純一郎はぼくを憎んでいるという話だった。
「君はぼくが憎くないの?」
 この家で唯一ぼくに優しくしてくれる妹におそるおそる聞くと、彼女は少しだけ笑って言った。
「お母様が亡くなったことは今でもとても悲しいわ。でも年が近いお兄様ができたことはうれしいの」
 それを聞いてぼくは心に決めた。鞠子のそばにいられるのならどんなことも我慢しようと。
 嫌がらせは長く続いたがぼくは何をされても黙って耐えることができた。何かある度に「大丈夫?」と気遣ってくれる鞠子の顔を見るだけでぼくは幸せな気分になることができた。
 ぼくが騒がなくなったことがつまらなくなったのか嫌がらせは徐々に減っていき、たまに思い出したように嫌がらせを受けることを除けば平穏な日々が続いていた。
 あの女がこの屋敷に来るまでは。

「新しい妻だ」
 めずらしく家族全員がそろった食事の席で、父が若い女性を紹介してくれた。初めて会うのはぼくだけではなく純一郎も鞠子も驚いたように新しく母となった女性を見つめていた。
 父が誰と再婚しようと構わなかった。ぼくが岩切家に引き取られて五年間が過ぎたが親子らしい会話をしたことはなく顔を合わせるのも久しぶりだった。父が誰と結婚してもぼくには関係ないことだと愚かにもぼくはそう考えていた。
 女が岩切家に嫁いで一年ほどした頃から異変を感じ始めた。
 気づくと鞠子のそばにあの女がいるようになった。テラスや庭で二人でお茶を飲んだり、鞠子を誘って買い物などに出かけることが多くなった。
「きっとお寂しいのよ。この前あの方のご両親が事故で亡くなられたでしょう。もっと親孝行してあげればよかったとおっしゃっていたわ」
 鞠子にそう言われては、大事な妹と一緒に過ごす時間が減ったことに文句も言えず、ぼくは黙るしかなかった。
 そのうち鞠子は習い事で屋敷の外に出かけることが増えていった。以前から屋敷に先生を招いてお花やお茶を教わっていたが、新しい母が習い先を変えてからは鞠子が屋敷の外に出ることが増え、ぼくは鞠子が帰ってくるまで庭の隅に座ってぼんやりと過ごすことが多くなった。
 その日も鞠子は出かけてしまったので、ぼくは裏庭にある小さな池をぼんやりと眺めていた。普段は庭師しか来ないような静かな場所に茂みを揺らしながらやって来る者がいた。兄の純一郎だった。
「こんなところにいたのか」
「何の用?」
 警戒するぼくを一瞥すると半分だけ血のつながった兄は言った。
「暢気なものだなと思ってな。お前は鞠子がどこに出かけたか知っているのか?」
 あの女と一緒に車に乗って出かけたので買い物だと思っていたのだが違うのだろうか。いつもよりも立派な着物だったから晩餐会にでも招かれたのだろうか。
「見合いだよ」
 純一郎が口にしたのは思ってもみなかった言葉だった。
「正直に言うとあまりいい縁談ではないな。家柄はそこそこだが相手の男は鞠子よりもかなりの年上だ。しかもよくない噂が多い。羽振りはそれなりにいいが、あの家はそう長くはもたないだろうな」
「そんな家にどうして?」
「さあな。父上はどうでもいいみたいだが、あの女は積極的に話を進めようとしている。あの女が気を変えなければ鞠子は来年の春にはこの家からいなくなるだろう。お前はそれでいいのか?」
 いいわけがない。ぼくにとって鞠子は大切な存在だ。半分だけ血がつながった妹のそばにいることができれば十分だったのに。

 家の車が戻って来るなりぼくは玄関へ駆けつけた。
 継母と二人で出かけたはずだったが、車から降りてきたのは鞠子だけだった。
 ぼくは上等な着物姿の鞠子に聞いた。
「お見合いをしたの?」
 鞠子は「ええ」と小さな声で答えた。
「そいつと結婚するの?」
「たぶん。来年の春に」
「そいつのことが好きなの?」
 鞠子は表情をくもらせた。
「わたしがどう思っていようと関係ないわ。岩切の家の娘だもの。この家のためになる結婚をすることは生まれたときから決まっていたことよ」
 妹の声はかすかに震えていた。悲しそうにほほえむと妹はぼくにいった。
「わたしが嫁いでも、わたしの兄様でいてくれる?」
 ぼくは何も答えられなかった。

 ぼくはまだ学生で妾の子だ。家のことに口を出せる立場ではなく、妹が意にそぐわぬ相手に嫁ぐことを止めることもできない。
 けれどぼくはもう小さな子供ではない。背丈は大人と変わらないほど大きくなり、腕力もあの女よりも強い。立場的には止められなくても別の方法は残されている。
 機会はあっさりとやって来た。岩切家では月に一度晩餐会が開かれている。父の近しい友人を数人招いてささやかな宴が行われることもあったが、取引先などを招いて盛大に行われることの方が多かった。盛大な宴の後はたいてい料理人に休暇を与えられ、別の料理人を臨時で雇うことも度々あったので、厨房から人がいなくなるのを見計らって包丁を一本くすねることはそれほど難しくなかった。
 あの女に近づくのも晩餐会のときの方が容易かった。大勢の客をもてなすために忙しく動きまわっているあの女が時々誰もいない部屋で一息ついていることは知っていた。
 厨房からくすねた包丁を隠し持ち、あの女がよく一人で休んでいる部屋に潜む。
 人を殺すことはいけないことだと知っていた。けれども大切な妹のためにぼくができることはこれしか思いつかなかった。
 ぼくはカーテンの後ろから飛び出すとあの女の体に包丁を突き立てた。力を込めると女の体から流れ出た血が包丁をつたってぼくの手を赤く染めていく。 
 誰かの悲鳴があがった。その声を聞きつけた人々が集まってくる。
 その中に妹の姿もあった。口許を手で覆い両目は大きく見開かれている。
 ごめんね。君にこんな嫌なものを見せて。
 でも大丈夫。これで君は自由だ。















白い手

 血溜まりの中に横たわるあの女を見たわたしは両手で口元を覆った。
 殺された人間を目にするのは初めてだ。絨毯に広がる赤い血も見ていて気持ちいいものではない。
 けれどもわたしが両手で口許を隠したのは込み上げてくる笑みを隠すためだ。
 あの女が死んだ。二年前にお父様と結婚して岩切の家にやってきた女が死んだ。母親のような顔をしてわたしのためだと言いながらわたしの自由を奪って岩切の家からわたしを追い出そうとしたあの女が死んだ。半分しか血が繋がっていないわたしの兄に殺されたのだ。
 人殺しの罪は重い。兄はきっとすぐに逮捕されるだろう。もう二度と会えないかもしれない。
 なんて素晴らしいことなのかしら。私の目の前から邪魔者が二人とも消えてくれるなんて。

 わたしには兄が二人いる。純一郎お兄様はわたしと同じく岩切家の当主と正妻の間に生まれたが、下の兄はお父様が余所の女に産ませた子供だ。お母様は亡くなるまで妾とその子供のことを気に病んでいた。
 お母様が亡くなった次の年に妾の子が岩切家にやって来た。妾が死んだのでお父様が引き取り屋敷で一緒に暮らすことになったのだという。
 冗談ではない。お母様を苦しめた妾の子と同じ屋敷で暮らすことなど不快でしかなかったが、密かに復讐するのにはよい機会かもしれない。
 わたしはまず手始めにあいつの持ち物を誰にも見られないように持ち出して庭の池に沈めたり土の中に埋めたりしてやった。あいつの部屋も汚してやった。花瓶の水や泥水を部屋の中にまき散らすのは意外と楽しかった。それを使用人たちには妾の子がやっていたのを見たと嘘をついた。子供は大人の気をひくために悪さをすることがあると誰かが言い出し、わたしの嘘は使用人たちの間では真実となった。
 妾の子にも嫌がらせは全部純一郎お兄様がやったと嘘をついた。それをあいつは素直に信じた。なんて馬鹿なのだろう。
 それからも何度も嫌がらせをしたが、わたしが心配したような顔で様子を見に行くとあいつは必ずわたしに笑顔を向けてきた。わたしの仕業だとまったく気づかない間抜けさがおかしくて、わたしもつられるように笑った。
 それも五年も続ければ飽きてくる。これからどうしようかと思い始めた頃にあの女が岩切の家にやってきた。

「新しい妻だ」
 父が紹介した女は純一郎お兄様と同じくらいの若い女だった。どうせ財産目当てなのだろう。思ったとおり嫁いでから女は散財をくり返したが岩切の家の財産はそれくらいのことでゆらぐ程度のものではない。好きにすればいいと無視していたが、一年ほどで状況が変わった。母という立場を利用してわたしの生活に口を出し始めた。
「こちらの先生に習った方が、きっとあなたのためになるわ」
 頼んでもいないのに勝手に先生を替えたので遠くまでお茶やお花を習いに行かなければならなくなった。つまらない買い物にも何度も連れて行かれた。家にいても庭やテラスでのお茶につき合わされ、わたしが自由になる時間はほとんどなくなってしまった。
 そればかりか見合いの話まで持ってきた。家柄はそこそこだが悪い噂ばかりが聞こえてくるような相手だった。
「あなたにとてもよくお似合いの方よ」
 あの女がそう言うので渋々会ってみると、想像以上に悪い相手だった。かなりの年上なのでわたしよりも先に死ぬだろうが、それまでの数十年を我慢するなど考えられない。結婚すれば岩切の家にとって多少の利益になることはわたしにも理解できたが、岩切の家に一人しかいない娘が嫁ぐには見返りがあまりにも少なすぎた。
 お父様は婚姻に賛成しているわけではないが反対もしていない。あの女がこのまま話を進めてしまえば、わたしは来年の春には嫁ぐことになるだろう。
 私には岩切の家での発言力はまだない。純一郎お兄様のように会社の経営に携わっていれば意見することもできただろうが、学生であるわたしはどうすることもできない。
「あの女、死んでくれないかしら」
 帰りの車の中で思わず本音が口からこぼれた。
 あの女さえいなければ少なくとも今回の見合い話をなくすことはできるだろう。何か方法はないかと思考をめぐらせようとしたとき、運転席から声が聞こえた。
「そのようなことを口にするものではありませんよ」
 小声で言ったつもりが運転席まで聞こえていたようだ。車を運転しているのはお父様の秘書だ。若いが仕事がよくできるとお父様が気に入ってそばに置いている男で、あの女とも話しているのを何度も見かけたことがある。私のたくらみがこの男を通してあの女の耳に入ればやっかいなことになる。
「あら。何のことかしら?」
 秘書もはっきり聞こえたわけではないだろう。とぼけてしまえばどうにかなると思ったが、
「誰かに頼んで人を殺せば、殺した人間も頼んだ人間も罪に問われますよ」
「何が言いたいの?」
「不用意な発言は控えた方がよろしいですよ。もし奥様が不自然な死に方をしたら痛くもない腹を探られることになりますから」
 どういうつもりなのかはわからない。けれど秘書の言い分には一理ある。
 邪魔者が消えてもわたしが捕まっては意味がない。誰にもわからないようにわたしがあの女を殺すことができたとしても、いつか暴かれるのではと心配しながら一生を過ごすのは嫌だ。自分の手を汚すわけにはいかない。
 それならば誰かにやらせればいい。わたしがやらせたのではなく自分の意思でやるように仕向ければいい。わたしにはちょうどいい存在がいる。

 屋敷に戻ると、玄関であいつが待っていた。
「お見合いをしたの?」
 都合のいいことにあいつの方から話を持ち出してきた。
「そいつのことが好きなの?」
 冗談ではない。誰があんな男を好きになるものか。どうにか平静さを装うが怒りで声がわずかに震えた。
「わたしがどう思っていようと関係ないわ。岩切の家の娘だもの。この家のためになる結婚をすることは生まれたときから決まっていたことよ」
 そのまま自分の部屋に戻ろうかと思ったが、せっかくの機会をふいにするのは惜しい。わたしは作った笑みをあいつに向けた。
「わたしが嫁いでも、わたしのお兄様でいてくれる?」
 あいつは黙ったまま馬鹿みたいに立ちつくしていた。

 これでうまくいくかどうかわからない。それでもわたしは賭けた。お母様を苦しめた妾の子に期待することは腹立たしいが、わたしに残された方法はこれしかなかった。
 だから床に横たわったあの女を目にしたとき、わたしは喜ばずにはいられなかった。自分の願いが最良の形で叶うとは思わなかった。
 これでわたしは自由だ。
 血に濡れた包丁を持つ妾の子にわたしははじめて感謝した。