B07 イハンスにやらせろ

 犬のヨーイはパン焼き女のジナンナと暮らしていた。
 窯は冬でも暖かかったし、焼き上がったパンの番などすればご褒美がもらえた。
 ある時、日暮れた調理場に侵入者があった。
 ヨーイは闇の中を近づき、よれた作業ズボンを見分けて噛みついた。
 盗人は細くあえぎ、ヨーイが後ずさりで引っぱると従った。
「いい子、ヨーイ。慌てた盗人にそこらを引っくり返されちゃたまんないの。いい子、ヨーイ」
 おだてられ、ヨーイは上機嫌で後退した。ジナンナは大小の壺、パンが盛られた鉢を背に立った。
「お座り。動くな」
 盗人が木箱に尻餅をつき、ジナンナはフフと笑った。
「犬に言ったのよ」
 当のヨーイがはまりこんだのは木箱よりも奥まった隅だった。盗人がゆっくり膝を除けたので、彼女は出てきて〈お座り〉をやり直した。しなやかな首を伸ばして盗人の口元を嗅ぐと、まだ幼い子供の匂いがして、彼女は優しい気持ちになった。
「もう仲良しの挨拶? 大した番犬ね」
 灯りを置いたジナンナはパンの鉢からきれいな欠片を選び、まずは番犬の仕事に報いた。
「ほらあんたも」
 乳で煮るしかない古いパンを突きつけられて、盗人はエホッと咳き込んだ。むせながら指さした先は、糖蜜の壺。
 盗人猛々しい、とジナンナが匙を引き上げると、タラタラと糖蜜が流れた。幾筋かふりかけて手渡し、指についたのをなめ、飼い主のあらゆる動作に、ヨーイが灼けつくような視線を送っている。
 盗人は急いでパンを頬張った。
「ガラス窯んとこの小僧っ子だね。食事をもらってないの?」
「ムッ、エホッ」
「ほら水」
「エホン、親方は言うんだ。るつぼの中のガラスが冷めて、糖蜜をかきまぜたぐらいの硬さになったら、頃合いだって」
「……」
「俺、糖蜜をかきまぜた事ないんだ」
「……」
 ジナンナは腕組みを解かず、ヨーイは「こいつやっちまった」とうなだれた。
「“ご馳走になりまして。ジナンナさん”」
「えっ」
「あんた口がきけたのね。だったら言う事があるのじゃない?」
「ご、ご馳走になりまして、ナッ、ナさん」
「ジナーンナ。やりたきゃどうぞ」
 ジナンナが場所を譲り、何一つ見逃すまいとする犬に靴を踏まれながら、ガラス窯の見習い小僧は木の匙を引き抜いては混ぜ、見つめると目がつぶれるという灼熱の底、彼のいるふいご場からは見えない白いるつぼを思い描いた。
 あとくちの甘い液体は、くるくる踊りながら垂れていった。

 ガラス窯の小僧はイハンスといった。
 工房へ戻ると、徒弟連中は彼の分も片づけを終わらせていた。
「俺、糖蜜をかきまぜて来た」
「そうかい」
「パン窯に犬がいるって知ってた? 耳の垂れた猟犬」
「知ってた」
 イハンスを皆で押さえつけ、ズボンの噛み痕と賭けの配当を言い立てて、職工達は宿坊へ帰って行った。
 俺が刺し子の前掛けするようになったら見とけ。イハンスは呪いを込めて見送った。
 炉床に近づくための防熱前掛けは、ガラス職人の序列の証だった。腕を認められた徒弟は灼熱の窯口に立ち、親方の目と手の合図だけで動いた。
 前掛けを勝ち取ってそれをするのは、ふいごを踏んでいるイハンスのはずがなかった。でも彼の大好きなウラカエなら。頭が良くて物知りの彼となら、いつか一緒に工房の差配ができるのだと、イハンスは夢見るようになっていた。
 二人は以前、同じ修道院にいた。
 ある時、ガラス工房のピヤル親方が頼み事に来た。異教徒の学者によるガラス作りの本が出回っているが、俗語翻訳者がガラスの事を知らないらしく、おかしな配合になっている。当時の教養人の共通語であった古典語版を手に入れたので、翻訳をやり直してもらいたい。
 筆頭写字僧はパラパラと見て、自分もガラスの事を知らないから同じ事になるだろうと答えた。古典語が分かってガラスが分かる、そんな者はいなかった。だが一番若いウラカエなら今からでも仕込める。そして聖堂窓の修繕の話になった。修道院は現金を出したくなかった。
 ウラカエは耳が聞こえないので、彼に懐いている少年を共に行かせ、身の周りに気を付けさせる。そう取り決めが整い、二人はひびの直った高窓ガラスの代金として、ガラス工房の徒弟になった。
 初めの数ヵ月をかけ、二人は共に下積みをこなした。ウラカエが上級職工に何か訊ねる時はイハンスが仲立ちした。ざっと仕事を覚えた今は、イハンスは一人でふいご場の見習いについている。
 床を二度蹴る音がしてイハンスが振り向くと、書き物仕事を終えたウラカエが立っていた。
「あー」
「フン」
 二人は素早く修道院手話を交わし、夜が更ける頃にはウラカエも顔に猟犬の鼻先の感触を思い浮かべ、床の中で笑った。

 その週から加熱調剤が始まった。
 川砂、植物灰、処理した石灰石などの原料を加熱しながら混ぜていく。新しい調合を試すのでイハンスはふいご場をはずれ、付ききりでウラカエの手話通訳を務めた。
 窯が高温溶融に入ると、いてもいなくてもいいイハンスは時おり半休をもらった。

 パン窯に向かう途中でイハンスは駆け出した。ジナンナが腕を振り回し、男がヨーイを引き倒している。
「すっかりここんちの子みてえな顔か? あ? しゅきしゅき父ちゃんとこおいで!」
 男はヨーイの前の飼い主で、再会の取っ組み合いにジナンナが「みっともない!」と豆のさやを投げつけているところだった。
「この子はガラス窯の子よ」
「お得意さんか」
 デバンと名乗った男は山越えをする行商人で、ガラス作りの盛んな沿海州の海藻灰を仕入れて来たのだった。
「ヨーイを、迎えに来たの? 最近足をひきずるんだけど」
「連れてきゃしないわよ」
 デバンは猟師としてそれなりの暮らしを立てていたが、ヨーイが何度か産んだ仔犬は猟師仲間に高く売れ、狐なんか狩ってるより実入りがいいやってんで、以来ブラブラしながら儲け話を探してる。というのがジナンナの乱暴な注釈だ。
「大体合ってんな。おいどうした」
 ヨーイは身を低くして、主人が手を伸ばしても避けた。
 お見限りなのさとジナンナは半扉を突いて豆のさや剥きに戻った。
「違う」
 イハンスは犬から見て〈喧嘩〉にならない場所まで下がった。
「困ってるんだ。ご主人が急に帰ってきて……そうだ、俺とさっきの取っ組み合いをしてよ。わー!」
 横っ跳びに跳ねると、イハンスはデバンの股をすくいにかかった。
 びくともしないデバンにそのまま押さえつけられ、イハンスは「降参」とうめいた。
「勝ったぁ」
 即興芝居を飲み込んだデバンは拳を振りたてた。
「ヨーイ、こいつといろよ。お前なんて名?」
「イハンス」
「いい子だ、イハーンス」
 大きな手がイハンスをもみくしゃにし、オスの位階がはっきりして安心したヨーイは、頭目オスの鼻を正式にべろべろなめて土間に戻った。
「この子、最初からヨーイを魔法にかけたみたいだったよ」
「コツでもあんのか? 餌くれるジナンナの言う事きくのは分かるが」
 イハンスは人、犬、人と目を泳がせた。
「犬は今の事しか考えてないんだ。今したい事と、されたくない事。そこに調子を合わせてやるの」
「あ?」
「やっぱり魔法だ」
 ジナンナがポクッとさやを折った。

 工房へ戻ったイハンスが来客の取り次ぎに出ると、それは犬を連れたデバンだった。
「よ、一瞬ぶり」
「こちらへ」
 イハンスはヨーイのためにへりくだり、デバンも「むー」と応じた。
「おいで、こっちの壁があったかいよ」
 ヨーイは主の許可を得て窯口の脇へ収まり、イハンスとデバンが吹き抜けの二階へ上がるのを目で追った。つまみ食いの前科がある職工達は、知らん顔で片づけを続けた。

「しばらく見なかったな」
 ピヤル親方にもデバンとはお決まりの軽口があった。
「どうだ、そろそろ後がまに」
「うるさいな」
「番犬なぞ置いてって、唾をつけたつもりか知らんが」
「うるさいな」
「人が見たらわしらが寡婦の世話をしてないみたいだろ。パン窯の許可状を継ぎたい奴は他にいくらでも……」
 本を抱えて辞去するところだったウラカエは扉を必要以上にゆっくり閉め、イハンスと声を出さずに笑った。

 梯子段を途中まで降りたイハンスは、残り半分を飛び降りた。
 窯口でぬくぬくしていたヨーイが、土間のはずれで腰を抜かしている。
「耄碌してんだろ」
 兄弟子達は順繰りにとぼけ、しかし憂さ晴らしの余興を楽しんでいる様子もない。
「ヴルルル……アンッ!」
 犬は時おり骨から身を震わせ、イハンスはぐるりと呪いの目つきをくれてから、窯の裏手へ走った。
 煉瓦造りの溶融炉の向こうに徐冷炉がある。成形したガラスをここでゆっくり冷まし、割れや歪みの出た物は屑ガラスに回して、見習い総出で砕いておく。
 屑ガラスのどれかはきしみ上げるような音で割れるのだった。皆、悪魔の悲鳴と呼んで嫌がった。イハンスはよく見てどんなのが悲鳴を上げるか当てられるようになった。色がにじんで厚みのあるやつだ。
「やめ! 作業やめ!」
 イハンスは袋を取り、山の中から疑わしいのをかき集めていった。
「あの、ありがとう。こっちは俺が砕いておくから」
 耳にキーンと来るアレなんだぜ知ってる? と尻すぼみに恩を売って戻ると、ヨーイはウラカエに首根っこをもみほぐされてうっとりしていた。
「おいで、パン窯にいよう」
 イハンスはひと単語の手話も送らずに土間を走り抜けた。

 るつぼの中のガラス素地は糖蜜の硬さになっていた。
 ピヤル親方はうなずいて、長い吹き竿の先に一回分を巻き取った。吹き役に渡し、丸く大きく吹いたのを炉に戻し、柔らかくしてまた渡す。
 それを回し役が受け取って、徒弟達が場所を空けた。竿の真ん中を持ち替えながら、風車のようにぶん回すと、遠心力でガラスは円筒状に延びていく。また炉に入れる。ぶん回す。
 親方は目で「もっと」と促した。もう少し長さを出してから円筒を縦に切り開き、延べ板の上で平たくすれば、片腕長の大きな板ガラスが取れるはずだ。

 街道三国の戦争で一帯は荒れていた。まともな宿場でジナンナの夫は盗賊に襲われ、猟師のデバンに背負われて戻った。
 これからはどんな輸送も金がかかるだろう。色つき瓶などいくら作っても採算が合わない。
 大きい透明板ガラスなら、護衛費を上乗せしても人は買うだろう。窓の採光が良ければ、どんな北方の冬の弱々しい日の光も取り入れられる。余計な薪を使わずに済む。

 後日、徐冷炉から引き出された板ガラスは、すすけたような色だった。

「これじゃ帆布でも張った方が明るいぜ」
「気を落とすなよ」
 ウラカエは唇を読むので、職工達はおざなりに慰めを言った。
「翻訳をもう一度見直してくれ」
 ウラカエの渋面と身振りは「翻訳は完璧だ」と言っていた。
「イハンスいねえのか、おーい」
 失敗品は屑場へ運ばれた。槌は妙な手ごたえでガラス面を何度も弾んだ。見習いはやけになり、薄板ガラスを砕くにしては大きすぎる反動をつけ、振り下ろした。
 ギイーーン!
「痛ってえ」
「畜生!」
 男達は耳を押さえてのたうった。
「ううっ、悪魔め」
「ケツの穴から引っくり返してやる」
 むくつけき職人の誰より汚い言葉を吐いたのはウラカエだった。
「おま、口きけたの?」
 ウラカエはしばらく黙り、観念した。
「耳も聞こえます」

 イハンスが丘の上から見下ろすと、ジナンナがせっせと窯出しを始めていた。
「大嫌いってんじゃないよ。でも……」
 ヨーイは「分かってる」と伸びをした。
「聞こえないのは俺の方なんだ」
 ヨーイはそれも分かっていた。ジナンナも分かっていた。
 初めて会った夜、ジナンナがまず声をかけたがイハンスは反応しなかった。
 唇を読めると言っても口が見えなければお手上げだった。目の端にウラカエの姿があれば安心できた。彼を頼るしかない事にうんざりさせられる以外は。
 ヨーイの様子を見ていれば、どこで誰が音を立てたかすぐ分かった。一人でも聞こえている素振りができた。一人になりたい時、イハンスはパン窯に来た。
「お前を利用してた。ごめんな」
 ヨーイは必要とされているだけで十分だった。苦手な音がなければ毎日ガラス窯を訪ねたろう。
「あれね、悪魔の悲鳴っての」
 誰もがぎゅっと目をつぶる衝撃音はイハンスにも聞こえた。遠いそよ風程度に。
「俺は平気でじっと見ていられた。袋へ集めて全部砕いた。皆が、これはイハンスにやらせようって言った」
 それの何が嬉しいか分かるので、ヨーイは尻尾を振った。
「俺に何ができるかを、人が話してるのが分かったんだ。あんな事初めてだった」

「聞こえない振りは偽りの罪ではありませんよ。人への説明を少し怠ける、怠惰の罪です」
 職工達は弁の立つ写字僧に丸め込まれていた。
「イハンスは? ペラペラ喋ってたぜ?」
「むせた振りして息の量を整えてね。彼に発声を教えたのも私です」
 弁が立って一言多く、しょっちゅう沈黙課をさせられていたウラカエにとって、修道院手話のみでの生活は屁でもなかった。
「うちは食い扶持を一人分上乗せで売りつけられたって訳か」
「せっかく仕込んだ写字僧を渡すんです。安く済んだ方ですよ」
「値に釣り合う働きがありゃあな」
 ウラカエは失敗ガラスの破片を拾った。
「イハンスに聞いた通りだ。着色効果じゃなく、ガラス素地の青みが圧縮されている。これ、ものすごく頑丈ですよ」
「それが何だ」
「大きくできます。流し込み法なら人の背丈の倍ほどにだって」
「鎧戸にでもすんのか」
「裏を錫で張ってはどうでしょう」
「鏡だな。めかし好きの巨人にでも売るかい」
 やけくその軽口を親方が制した。
「窓用ガラスならちょっとした平民だって買うさ。だがそんな奇天烈な鏡を買う家は、街に一軒あるかないか」
「国に一軒あるかないかでしょう。え、それって王様?」
 ウラカエはわざとらしく胸を押さえた。
「……面白え冗談だな」
 皆本気だった。
「戦勝で調子づいてる西国の王なら鏡の門、いや鏡の邸ぐらい作るかもしれん」
「兵力より文化を見せつける段階に来ましたからね」
「どう売り込む? 見本をズルズル引きずってくか?」
「それこそ盗賊に狙われる」
「王様の方でこちらに気づいて頂きましょうか」
 ウラカエが笑うと、細い犬歯が獣じみて見えた。

 そして人の背丈の倍もある鏡は完成し、慎重に吊り上げられた。木枠と滑車を使い、豪邸の壁ではなく、森の高い梢に吊るされた。
 春分過ぎの太陽が鏡面を照らした。
 お告げ星のような輝きは、何里も離れた修道院からも見えた。修道士達はこの稀有な眺めについて広く語った。ある者は手紙で、ある者は出かけて行って、森林地方で巨大な鏡が作られたと伝えた。西国王家にゆかり深い方面には特にしつこく報せた。

 そうした騒動の全てがヨーイには楽しい見物だった。
 印状を持った使者が来て、警護を連れた騎士が来て、荷馬車が隊列を組んで、巨大な鏡を幾枚も運び出すのに、彼女の友達の名が呼ばれた。ヨーイはその都度ちぎれるほど尻尾を振った。
 誰もが言った。
「イハンスが知ってる」
「イハンスにやらせろ」

 頼み事をするのに何か不遜な言い方をして今度は参籠課(※おこもり)を言い渡されていたウラカエは、全く役に立たなかった。