B08 花咲と白い犬


 漆黒の闇の中、そびえ立つ桜の大木を低い視線で眺めている。少し肌寒い。漂う霧が幼い体から体温を奪っていく。
「咲良、これからこの犬を飼いなさい」
 目の前にいるのは祖父だ。その横には小さな白い犬が綱をとられ、座っていた。祖父は無理矢理私に綱を握らせた。犬は、首を傾げながら尻尾を振ると、飛びついてきた。驚いて尻もちをつき、痛いと思うまもなく、顔中を舐められた。もふもふの毛がとても美しく闇の中だというのに輝いていて、きれいで、可愛くて右手で頭を撫でると、指をすり抜けていく毛が温かくて。
「名をなんとする」
 祖父に促され、何故か頭の中に名がよぎった。
「えっと、しらぬい、かな」
 その時、気付くべきだった。歓喜に震える犬の尻尾に。

 闇が霧散し、鼻を舐められてあわてて目を開く。
 見慣れた天井とライト、それに白いしっぽをぶんぶん振る、もふもふの犬。
「おはよう不知火」
 抱き上げてなでてやると、さらに顔をなめられた。

 祖父が連れてきた小さい白い犬は、ある種の贄だったそうだ。
 きちんと世話をして死んだ後、桜のご神木の下に埋めて、その半年後、犬の養分を吸った桜を燃やして灰を作る。その灰を原料の一つとして、あやかしを退治するための刀を作るそうだ。それが花咲家に生まれた男子に課せられた使命だって教えられてきたけど、私、女子だから。
 飼うことを強要された犬、不知火は、お利口で可愛いけど、とんでもなく長生き。本当ならもっとよぼよぼな犬になってるはずなのに、不知火は見た目が子犬のまま、もう15年も一緒にいる。
 それよりも、跡取りになれない決定的な理由が私にはあった。あやかし退治の花咲家の子供なのに、あやかしを見ることができなかったんだ。

 高校3年の春、祖父が死んだ。病死だった。お葬式の時に囁かれた呪いなんて怖い言葉は聞こえないふりをした。
 そして、ただ一人の花咲家の子供である私は、今度こそ家業を継ぐように言われるんじゃないかとビクビクしていたら、
「あれはおじいちゃんが道楽でやっていたようなものだから、気が向いたらやればいいよ。今は行きたいところに行きなさい」
 きっぱりと言い切った母に甘えて、都会の大学を受験、無事合格してペットと住めるアパートを借りた。ワンルームの小さなお城を手に入れた私は、「これであやかしとはおさらばよ! ね。不知火」なんて喜んでいたんだけど、二十歳を過ぎた頃から、何故か見えるようになってしまった。
 最初は大学のガラス窓に映る羽の生えた小さな人間だった。ふり向いてみたが、そこには何も居ない。ガラス窓にはいる。他にも大きな手だけのあやかしや、のっぺらぼうなどが生徒たちに混じって歩いているのを見て震えた。怖くて母に相談したら、護身用に木刀をくれた。いつも持ち歩いているからか、変な男が寄ってこなくて助かっている。変じゃないのも来ないけどな!

 二日酔いの頭を揺らさないようにキッチンに向かう。後ろを白いもふもふが散歩用の赤い首輪をくわえてついてくる。これは一緒に連れて行けってことかな。うちの大学、けっこうペットを連れて行く人がいるから、連れて行っても目立たない。サークルの部室でのお留守番も、慣れたものだ。
「不知火、今日は講義ないから、就職相談に行くんだけど」
 すると顔を上げてきちんと座って話を聞く。不知火は賢い。
「一緒に行く?」
「わん」
 一声、かわいい返事をした不知火の頭を撫でてやって、朝ご飯を用意する。不知火用に作りおきしてあるゆでた鶏胸肉とご飯を、不知火のえさ入れに。自分の茶碗にご飯をよそって、インスタントの味噌汁にお湯を注ぐ。座ってゆっくり食べながら、昨日ゼミの飲み会で酔って帰ってきたのに、よくご飯をセットしたなあと自分を褒めた。
 着がえ終わって荷物を持ち、玄関に行くと、既に不知火が自分の赤い首輪をくわえて待っていた。首輪を付けてリードを装着し、護身用の木刀を持って出かける。木刀ケースなんて持っているから、たまに職質される。「護身用です」と説明するのはめんどくさいけど、お守りだからね。
 不知火が先導して大学までの道をのんびり歩く。今日こそは就職先、見つかるといいな。3年の時からどれだけ履歴書出しても、全然ご縁がない。まあそのうちなんとか、なんて物思いにふけっていたら、目の端で見てしまった。道の端でうずくまる、緑色のスーツを着たオジサンを。誰もが遠巻きにしているところを見ると、関わらない方がいいよね。君子危うきに近寄らずで通り過ぎようとしたんだけど、不知火がオジサンに向かってぐいぐい行く。リードに引っ張られるままについて行くと、うずくまる人の臭いを嗅いで、私を見上げた。
「わん」
 可愛く鳴いてもだめですよ。
「その人は寝てるから、邪魔しないように行こう」
 でもリードを引っ張ってもびくともしない。一生懸命地面に踏ん張って耐えている。そしてオジサンを見ながらキュンキュン鼻を鳴らしている。あまりにも可愛すぎるから、声をかけることにした。人命救助、大切ですよね。
「あの、大丈夫、ですか?」
 声かけたけど反応がない。本当に具合悪いのかな。救急車を呼ぼうとスマホを出そうとポケットを探ろうとしたら、頭上に大きな影が差した。生温かく臭い風がどうっと足下を抜けると共に、声が聞こえた。
「おまえ、も、うまそう、だな」
 見上げてもなにもないが、すぐそばの自動ドアのガラスを見れば、よだれを垂らして大きな頭だけのあやかしが、私を見下ろしていた。やばい。ここから逃げなくては、でも倒れている人は、まわりの人は、不知火は……。
 頭の中をとりとめの無い考えが駆け巡り、血が逆流するような気持ち悪さで吐きそうになり口元を押さえようとしたその時、リードが手からすり抜けた。白い小さな犬が自分の前に立って、何も無いところに向かって吠えていたが、次の瞬間、鋭い風と悲鳴と共に、その小さな体が吹き飛ばされ、植え込みの中に消えた。
「不知火!」
 慌てて駆け寄ろうとしたのに、何かが自分の右腕に噛み付いた。痛いのに声が出ない。生臭い息が顔にかかる。噛み付かれた場所からまっ赤な血が流れ、服を真っ赤に染めながら地面にしたたり落ちていく。
「ああ、うまい」
 低い声と同時に目の前が揺らいで、さっきまでガラス越しにしか見えなかった大きな顔だけのあやかしの姿が見えた。斬ばら髪で赤黒い肌。ぎょろりとした目、その口に自分の腕が食われている。痛みと恐ろしさに震えながら護身用の木刀を探るが、手が届かない。その時、3メートルはありそうな大きな白い犬が、牙をむき出しにして私の前に現れた。大頭は、にやりと笑った。
「お前もこやつの血を狙っているのか? なかなかの美味だぞ」
 私の血で濡れた大きな口を開けて大頭は笑う。牙を剥いた大きな白い犬は、姿勢を低くして唸りをあげると、大頭に飛びかかり、目のあたりに噛みついた。大頭は大きな悲鳴を上げて、その形が崩れるように消えた。
「……へ?」
 緊張で張り詰めていたからか、力が抜けて勢いよく膝をついてしまった。微妙に膝が痛い。大きな白い犬がそっと近寄ってきた。腰が抜けたようで立ち上がれない。犬は鼻先で、私が噛み付かれたところを嗅ぐと、大きな舌でぺろりとなめた。やっぱりうまいとか言うのかな。このままでは食べられるのかな。あの大頭を噛んだ口で……。今度こそ死ぬかもと、覚悟していたのに、白い大きな犬は、ふるりと体を揺すると、ほのかな光を発しながら変化した。白く美しい毛に包まれた足が、人の手足に。凜々しい犬の顔が美しい男に。腰までありそうな長い髪の毛は、白く美しかった。でもそのネームプレートが付いた赤い首輪から伸びるリード、見覚えがありすぎる。
「まさか、……不知火?」
 白い髪の男は片膝をついてうやうやしく頭を垂れた。
「はい、主様。ようやくお話しできるようになりましたね。この日をどんなに待ち焦がれたことか。嬉しゅうございます」
 ちょっと待て。
「うちの不知火は小さい犬、よね?」
「あれは仮の姿でございます。主様と暮らすには、小さいほうが便利ですから」
 その時、周りがざわついているのに気がついた。
「なにあの人」
「救急車呼んだ方がいいかしら」
「ねえ、おかあさん。なんであの人、はだかなの?」
「しっ。見ちゃダメ」
 小さな子供を連れた女の人が、訝しげな目で足早に通り過ぎていく。それを見てようやく、目の前の男が全裸であることに気がついた。慌てて着ていた上着を脱いで、不知火に渡す。
「とりあえずこれ! 小さいけど隠せるでしょ?」
「何をですか?」
「そ、」
 それを言わせるのか私に! あたふたしていたら、優しく微笑まれた。
「冗談ですよ。主様。いつもの姿に戻りましょう」
 ふんわりとした光に包まれた白い髪の男は、小さないつもの不知火になった。赤い首輪が白い毛とよく似合っているけど、全裸の男が赤い首輪してると、ものすごいインパクトだね。学習した。
「社長! ご無事ですか!」
 通りの向こうから黒いスーツ姿の男性が走ってきて、緑色のスーツのオジサンの上半身を起こして軽く揺すると、オジサンがうっすらと目を開けた。よかった。
「ありがとう、迎えに来てくれたんですね。一寸君」
 力なくそう言う彼に、イケメンは心底ほっとした顔をした。ん? 社長?
「お帰りが遅いので、あやかしに襲われているんじゃないかと心配してたんですよ」
「あの方たちが助けてくださったんです。本当に、ありがとうございました」
 イケメンさんに支えられながらゆっくりと立ち上がったオジサンは、丁寧に一礼してほわんと微笑んだ。
「ケガをさせてしまったことは大変申し訳なく思っています。そうだ。今から、うちにいらっしゃい。噛まれたところの治療も必要でしょう。貴殿も、よろしいですかな?」
 男は屈んで不知火にも同意を求めると、不知火は可愛い顔で、「わん」と鳴いた。
「で、でも私これから大学に」
「ああ、学生さんでしたか。でもその服で行くのは目立ちますよ」
 そう言われて自分の姿を見て、あ、アドレナリン切れた。ドーパミンもさようなら。右半身血塗れの自分なんて、見ただけで貧血起こしそうです。
「今日は休みなさい。一寸君、丁重にお連れして」
「はい、社長」
 そして、イケメンのお兄さんは私と緑のスーツのオジサンを何故か不知火に「車を回してきますので、社長をよろしくお願いします」って丁寧に頼んでいった。なんか、解せぬ。

 イケメンが回してくれた黒塗りの車に乗って到着したのは、都内というには少し外れたところにある、比較的駅に近いビルの前だった。中に入るとめちゃくちゃきれいで広いエントランスじゃないですか。本当に会社ですか?
「ようこそOTGへ。犬神殿はこちらに。お召し物をご用意しております。お嬢さんは先に診察をいたしましょう」
 なんで犬が先? それよりおーてぃーじーってなんですか?
「ア、ハイ」
 聞きたいことが山ほどあるのに考える事を放棄してますね私。そして不知火は社長さんと一寸さんに別室に連れて行かれて、私は病院の診察室みたいなところで、白衣ならぬ赤いフードを被った女の人に診察を受けたけど、噛まれたところに傷口がなかった。あんなに痛かったし血が流れたのに。
「傷は完治。呪いもなし。犬神様のおかげね。じゃあこれに着替えて」
 桜柄の清楚なワンピを渡されて言われるまま着替えてた。「あらかわいい」って言ってくれた女の人に愛想笑いをした。可愛いと言われてうれしい年頃は過ぎましたわ。そのうち廊下を走る音が近づいてきて、ノックもなしに人型の不知火がドアを開けて入ってきた。
「こちらでしたか。主様」
 着替えたんだ。紺地の着物に赤い首輪がよく映えて。
「その首輪は外そうよ。変態っぽく見える」
「これは外せませぬ。主様が初めて私に下さったものですから」
 必死に言うなよ。○ビーかよ。(某魔法使いの本は愛読書)
 就職が決まったら初給料で違うのを買おう。そうしよう。はい決定。
 赤いフードの女の人は私と不知火を社長室に連れて行ってくれた。一応面接の練習してますから、練習と同じようにして入りますと、緑のスーツを着ていたオジサンが、高そうな黒光りするスーツに着替えて いかにも社長さん用の机の向こうから微笑んでいた。前髪を上げているからか、さっきより威圧感すごい。仕事できる感が5割増し。スーツによって人格変わるのかな、この人。机まで歩み寄ると、
「申し遅れました。私、OTGの有桐と申します」
「ご、ご丁寧にどうも」
 社長さんに、名刺をいただいてしまった。
「先ほどは助けていただき、ありがとうございました。ところで、先ほど小耳に挟みましたが、大学4年生で就職先が見つかっていらっしゃらないとか。よかったら、4月からうちの会社で働きませんか?」
 ちょ、ちょっとそれは、本当ですか? 今まで就職に関していい知らせなんてなかったのに、こんな幸運が巡ってくるなんて。
「もちろん犬神殿もご一緒に」
 有桐さんの視線が不知火に。犬神って、
「あの、さっきからおっしゃっている犬神って、うちの不知火のことですか?」
 すると有桐さんは意外そうな顔をした。
「おや、ご存じなかったのですか? あなたの祖父、花咲咲也氏がご自分の孫を犬神殿に守らせる契約をしたことは、この界隈ではわりと有名な話ですよ?」
 マジかー!
「ねえ、不知火。あなた、犬神、なの?」
「はい。と言いましても、私は300年ほど生きて変化をする犬です。あやかしが全く見えないあなたに危険が及んではいけないと、咲也があなたを私に託したのです」
 なんてこった。祖父は不知火が死なないのわかってたんだ。今まで悩んできた時間返せ! それにしても祖父の事情をよく知っている人が社長のこの会社って、まさか、
「OGTって、あやかしがらみの会社、ですか?」
「ええ。表向きは普通の商社ですが、あやかし退治を専門としております。個性的な仲間と一緒にあやかし退治。楽しいですよ」
 有桐社長はそう言いながらにっこりと笑った。
「あなたの就職先、犬神殿は厳選に厳選を重ねていらっしゃったようですが、うちで決まりでしょう? なんといってもうちは犬神殿も込みで採用したいと言っているのですから」
 込みってことは、
「給料は1人分?」
「もちろん2人分ですよ」
 よかった。でも自信満々なこの感じ、なんだか怖い。
「主様。こちらでお世話になりましょう。私、主様と一緒でしたら」
 そしてうちの忠犬は私の肩を抱き、
「しっかり勤めますから、毎日頭をなでて下さい。私はその手が好きなのです。そうだ。お給料が入りましたら、そろいの指輪を買いましょう。人の世はそういうものなのでしょう? 我が嫁御殿」
「はあ? 嫁になったつもりはないよ。ま、まあ、なでるのはいいけど、私がほしいなら全力で口説いてよね」

 なんて、あおるんじゃなかった。
 あれから5年経つけど、未だに不知火は、私を熱烈に口説き続けている。