B09 手の行く方へ


「君は手が歩くのを見たことがあるかい?」
 膝に置かれた、骨ばった白い手から、ほんの少し力が抜けたのがわかった。
 疲れた顔の若者は、胡乱気にこちらを見つめていた。
 おそらく、かつての私も同じような反応をしたのだろう。


 あの頃の私は、まだ若く、不器用で、理想が高く、潔癖で、だからと言って声高に自己主張ができるわけでもなく、ただ息苦しさだけが傍らにあった。
 今、この齢になって振り返ってみれば、何とも青臭く、面映ゆくも懐かしく感じられるが、当時はその窮屈な閉塞感に押しつぶされそうだと思っていた。
 そんな日々の中、特に何か切欠があったわけではないと思う。
 その朝も、いつもの時間に駅に向かった。
 しかし、いつものように周囲の流れに押しやられながら電車に飲み込まれることはなく、行き過ぎるオレンジ色の車両を見送った。
 程なくすれば次の電車が来て、それでも十分に出社時間には間に合った。
 わかってはいたけれど、そのあと二本の電車をも見送って、これに乗ればぎりぎり間に合うという電車にも乗ることができず、だからと言って家にも足が向かず、反対側のホームに停車中の普通電車に乗り込んだ。


 当初は満員だった電車内も次第に身動き取れるようになり、座れるようになり、空席も目立つようになってきた頃、いつもなら職場に到着している時間なことに気が付き、一旦電車を降りた。
 人のまばらなホームの端で、電車が行ってしまうのを見送ってから会社に電話をかけ、体調不良で休む旨を伝えた。
 喉がカラカラに乾いていて、咳き込んでしまったが、おかげで怪しまれることもなく「お大事に」との言葉までいただけた。
 色あせ、ひび割れたベンチに座って、自動販売機で買ったペットボトルの水をあおる。
 多少の罪悪感と奇妙な昂揚感。
 仰いだ空は雲一つなく青かった。
 水を飲み干して一息ついた頃にやってきた電車に再び乗り込む。
 乗り込んだ車内は閑散としていて、どこに座ろうか迷うほどに空席ばかりだった。
 私は数人の乗客の誰からもほどほどに離れた場所に陣取り、目を閉じた。
 規則正しく揺れる電車の音と、聞いたことのない駅名のアナウンスの声が呪文のように耳を通り過ぎる。
 窓からの光は程よくあたたかく、いつしか私は眠ってしまっていた。
 目が覚めたのは、強い揺れで停まったせいなのか、それともしつこく繰り返される終点のアナウンスのせいだったのか。
 慌てて立ち上がり、周囲を見回していると、乗客の姿は他になく、車内を巡回する車掌と目が合った。
 胡散臭げに見られたような気がして、弁明する代わりに運賃の精算を頼んだ。
 焦って小銭をこぼしたりしながらも、どうにか支払いを終えると、車掌は目尻のしわを深くして、いってらっしゃいと柔らかく送り出してくれた。
 その声に背中を押されるように電車を降りたホームは電車二両分がどうにか納まるくらいの長さしかなく、屋根はなく、あるのは木製の、座ったら崩れてしまいそうな朽ちかけのベンチが一つ。駅名を表示する看板は、目を凝らせば何とか読み取れるかもしれないほどに色あせ、ひび割れたホームのあちこちから雑草が伸びているといった、寂れたとしか言いようのない駅だった。
 駅舎というよりは物置と評したほうが良さそうな小屋からでると、絵本に描かれていそうな青い空と、なだらかな緑の山並みが眼前に広がっていた。
 いくつかある商店らしき建物は、軒並み錆びたシャッターが下りている上、看板も斜めになったり文字がかすれて読めなかったりと、長い間、開いていないように見えた。
 唯一、古ぼけた自動販売機が唸っていて、とりあえず完全に死んだ町ではないことを主張していた。
 中身に不安を覚えながらもペットボトルのお茶を一つ買い足した。
 賞味期限を確認すれば、ひと月後で少しだけ、安心した。


 駅前からまっすぐ山の方へ伸びた道路は、程なくして舗装がなくなり砂利道になった。
 雑草が領土を広げている中、轍の部分までは浸食されていないあたり、一応車の往来はあるようだ。
 ただ、今のところは誰にも会うことなく済んでいて、私は少し安堵していた。
 電車が来るまでは、きちんと仕事に行くつもりだった為、今着ているのはスーツで、観光地でもなければ、会社も、民家ですらろくにない田舎道を歩いている余所者は不審すぎる。
 人と行き会って、何をしているのか問われても、私自身が分かっていないことを答えられるはずもないし、気の利いた嘘をつく器用さもないから、この状況は幸いだった。


 小一時間ほど歩いただろうか。
 山のふもとにたどり着き、足を止める。
 汗ばむほどではなかったが、さすがに暑くなってきたので上着を脱ぎ、ネクタイを緩めた。
 ちょうど通った風のおかげで暑さが逃げ、周囲を見回す余裕ができた。
 山以外は田んぼと畑の広がる、どこにでもありそうな田舎の風景だった。
 家の数はまばらで、やはり人の姿はなく、聞こえるのは葉擦れの音と、いくつかの鳥の声と、ほんの少しくたびれた自分の息遣いだけだった。
 私はお茶を一口含み、やわらかな土を踏みしめ山へ入った。


 中腹くらいまでは来たのだろうか、
 大小さまざまな木々が生い茂り鬱蒼とした中、山の外の景色は見えず、ただ上空に道幅と同じ程度の広さの空が見えるだけだ。
 日陰が多く、時折風が吹くおかげで暑さを感じずに済むのは有難かった。


 ぱらりと冷たいものが頬に触れ、上を向く。
 先ほどより日差しはないものの、雲もなく水色の空が広がっているにもかかわらず、雨が降り出してきた。
 初めは間遠だった水滴はだんだんと細かく密になる。
 木はたくさんあるものの道側にまで都合よく張り出しているものはなく、かといって斜面側に降りれば土に還りかけた落葉に足を取られて転がり落ちかねない。
 とりあえず、かかえていた上着を頭からかぶり、雨宿りできる場所を探すべく足早に山を登った。
 幸いなことに少し登ったところで枝を大きく張り出した木陰を見つけ、避難する。
 雨足が弱いのもあって、雨が葉の間をすり抜けてくることなく雨宿りには十分だった。
 見上げた空は相変わらずのくすんだ水色で、程なく上がるだろうと楽観視していた。
 しかし、思いのほかしつこく振り続け、じっとしていることにも飽きてきた。
 この程度の雨ならは、先ほどのように上着をかぶっていればさほど濡れはしないだろう。
 どうせここまで来たなら頂上まで行ってみようかと考え始めたところだった。
 いつの間にか目の前に黒ずくめの男がいた。
 バイク乗りのような革のジャンパーとパンツにサングラスという厳つい格好ではあったが、背がそれほど高くなく、ぽってりとした腹回りと少し垂れたようなサングラスの形状もあって、親しみやすい雰囲気があった。
 人懐こい笑顔を浮かべた男に、近くに雨宿りができる場所があるからと誘われ、私はうなずいた。


 すぐ先に草に埋もれかけた細い石段があり、男に注意されるまでもなく、滑らないように足元に気を付けながら男の背を追う。
 のぼり疲れてきた頃になり、ようやく開けた場所に出た。
 随分と古そうな寺だった。そして、今にも壊れそうで、これなら先ほどまでいた木陰でもさほど変わりなかったのではないだろうかとも思えた。
 男はそんな私の様子を見て、中はまだましだからと促した。
 我が物顔で本堂に上がる男のあとを、私は靴を脱ぐべきかと躊躇しつつ、しかし床の朽ち加減と埃の厚さを見て、結局男に倣って土足で上がることにした。
 男の言葉通り、濡れ縁の状態の悪さに比べれば、内部は床が抜けていることもなく、雨漏りもなさそうだった。
 それほど大きなお堂ではないが、仏像等は撤去されていて、がらんした板の間はずいぶん広く感じた。
 ただ中央付近に男が使っていると思しきシュラフやコップなどの日用品がいくつか散らばっていて、その生活感がなんとも奇妙だった。
 男は、見た目通りのバイク乗りで、各地をバイクで旅してまわっていること、この寺には三日前から泊まっていることを、これはおそらく元からあったものだろう燭台のろうそくに火をつけながら話した。
 うす暗かった本堂のなかに、ぼんやりと丸い灯りの輪が広がり、男が「おまえは?」と言いたげにこちらを見ていて、私は今朝からのことを、特に理由もなく山に登っていたことを話した。
 男は笑うことも茶化すこともなく、「若さ特有の」などといった通り一遍の説教をはさむこともなくただ聞いていた。
 単純に興味がなかっただけかもしれない。
 そして口にしたのは、手が歩くのを見たことがあるかという、意味不明な問いだった。


 手が歩く、と言われて私がはじめに思ったのは、逆立ちをして歩く人間の姿だった。
 それかと尋ねれば男は違うと言う。
 私は手を人に見立てて、床の上で右手の人差し指と中指を歩いている風に動かして、こういうことかと尋ねると、それも違うと言う。
 男から聞いた話をまとめると、一対の手首から先だけの手が地面を歩いているのだという。
 見えないだけで、実際は体がついているかもしれず、もしかしたら逆立ちで歩いているというのも間違いではないかもしれないとも言った。
 ただ足取り? 手取り? がスキップをするようだったり、ダンスを踊っているように見えたりすることもあるから、逆立ちという不自然な体勢には思えないとも付け加えた。
 体のない手だけが、地面をもぞもぞと動いているというのはそれだけで聞けば不気味ではあるが、スキップやダンスと聞くとどうにもコミカルで怖いとも思えない。
 実物を見ればまた別の感想が出るかもしれないが、男の話しぶりはおどろおどろしいわけでもなく、旅先で出会った若造を怖がらせ、からかうという意図はないように思えた。
 ではなぜこんな話を男はしたのか。
 沈黙の中、話題に困ってと言うならわからないでもない。
 だが、自己紹介めいた現状説明をしただけで、手に関連した話をしていたわけでもない状況で、唐突すぎた。
 口元に笑みを浮かべた男をじっと見る。
 だいたい、この薄暗い中でサングラスを取らないのも今更ながら胡散臭かった。
 男は、他意はない旨を伝えながらサングラスを外した。
 サングラスをとった後もあまり印象の変わらない顔だった。
 大きく垂れた目は、その顔の丸さと相まって狸を彷彿とさせ、小さく吹き出してしまう。
 誤魔化すようにあわてて横を向くが、しっかりと伝わったらしく男は拗ねた風に口を尖らせた。
 おそらく四〇代後半か、もう少し上くらいの男のする表情ではないはずだが妙に愛嬌があって似合っていた。
 ひとしきり狸顔のことで拗ねた後、男は手が歩くことをどう思うか聞いてきた。
 どう思うも何も、荒唐無稽な話だし、実際見てみないと何とも言えない。
 男が実際見たかどうかはわからないが、良いとこ幻か、夢で見たくらいのものだろうと思っていた。
 束の間考えたふりをして、自分にはわからないことを伝え、男がどう思ったのかを逆に問い返した。
 手もたまには歩いてみたくなったんじゃないかと、男は至極あっさり答えた。
 毎日毎日小さな文字を書いたり、細かな作業をしたり、かと思えば重たいものを運ばされたり、足に比べたらやることが多くて、嫌気がさしたんじゃないかと。
 そう言われてみれば確かに、手にはやることが多い。
 男の見た手が、スキップやダンスをしていたというのも、もろもろから解放されての行動だったのかと思うと、微笑ましくも思え、頬が緩んだ。
 足は足で踏まれたり、蹴躓いたりと苦労はあるんだろうけどなぁと男は靴をはいた足をねぎらうように撫でる。
 私も同意をした。


 その日、他にどんな話を舌かは覚えていない。おそらく大した話はしなかったのだろうと思う。
 そして手が歩く話をされた理由も謎のままだ。
 夜になり、シュラフを広げ寝転がり、男が持っていたタオルや新聞を上にかけ、二人で並んで眠りについたところまでの記憶はある。
 起きた時には、隣に男の姿はなく、かけていた新聞やタオルはもちろん、下に敷いていたシュラフさえ跡形もなかった。
 埃まみれになってしまった全身をはたくと、差し込んだ陽ざしに反射してきらきらと埃が舞った。
 雨は止んでいるようだ。
 床には私の足跡と、それ以外の何かの跡がいくつもあった。
 手が歩いたら、こんな足跡が付くのかもしれないと少し思った。


 そして私は山を下り、電車に乗り、家に帰り、日常に戻った。
 職場に行けば、体調不良を心配する言葉もありつつ、しかし仕事もしっかりと振られた。
 そうして毎日を重ねる中、あの男が言ったように歩く手を見るようになった。
 それほど高い頻度ではない。数年に一度とか、そんなものだ。
 街中で、駅のホームで、階段で、それは楽しそうに軽やかに。


 若者は、とりとめのない私の話に口をはさむこともなく、ただ静かに座っていた。
 時折、視線が合ったから全く聞いていないということもないのだと思う。
「あした」
 若者は伏せていた顔を上げ、かすれた声をこぼす。
「風邪をひくのでお休みを頂いて良いですか?」
 少しだけ空いたままのドアの向こうへ、骨ばった白い手が軽やかに歩き去るのが視界の端に映った。