B10 ローマでも長安でも洛陽でもない、ある都の休日

 華国の都・新陽の片隅、八等司厩官の李典偉が、妻と二人の子とつましく暮らす家に異変があった。
青く塗られた竹片が、家の戸に白羽の矢で打ち込まれていた。聘青票と呼ばれる貴人からの召喚状で、発したのは王の側室のひとり、有美人。有が姓、美人は官位ないし役職である。
 怪物の噂高い女であった。年は若く、まだ子はないものの、目下、王の寵を後ろ盾に権勢並びがない。暮らしは贅をきわめ、諫言した忠臣三人を、自ら斬首して宴席を血に染めたともきく。
 その怪物美人が、自らの目の愉しみのため、山海の珍品をかきあつめて足らず、ついにこの男を酒席の興に所望の運びとなったらしい。
 それも道理、この李は目を引く巨躯に加えて、例を見ない来歴の持ち主であった。

 遡ればこの男、平成三年大阪北区生まれの大木ノリヒデといった。あだ名はウド、フランケン、馬やん。特技は将棋でアマ二段、愛読書は吉川三国志。偏屈な祖父に育てられたせいか、言葉遣いも趣味も保守的で年寄りくさい。コミュニケーションは下手だが、同情がちで涙もろい。経歴を知らぬ人ならば、「気は優しくて力持ち」と形容したくなる。
 だがその履歴書には、短い学歴覧に比して長い賞罰欄がある。
 成人式の日、地元の年長の不良に呼び出され、神崎川の岸へ出向いた。私刑の標的になり、難を振り払ったのが身の不運。相手が橋桁に頭をうち、傷害致死に発展した。執行猶予も棒に振り、二年間服役したのみならず、仮出所後には数千万の民事賠償の債務を負った。
 暗闇の中の唯一の灯は、保護司の蹄鉄師が、気性を見込んで、弟子にとって、滋賀栗東の装蹄学校へもやってくれたこと。
 丸三年を真面目に勤め上げた日、この親方が中国旅行ツアーのチケットをプレゼントしてくれた。
「三国志史跡めぐり三泊四日」
 そのさなかの湖北省某地で、ガイドに促されるまま、禹王廟にむかって手を合わせたところ、いきなり昏倒し、目覚めたところが、結果から言えば、はるかな時を遡った古代であった。
 手荷物を確認すると 携帯の中和辞典が一冊と、大きな包みがひとつ。これは親方のお遣いものだった。中には北京語簡体字「乗馬大系馬具編」の豪華本とチタンの馬蹄一対があった。

 突如出現した謎の大男を、この世界の人間もひとしきりは疑った。だが一年に及ぶ都の役所での聴取を通じて、言葉が疎く、出自は不可解ながらも、基本、善良で木訥な人柄は周知となり、やがて彼には今の名と身分が与えられた。
 新しい仕事は、郊外の官営牧場の厩舎に寝起きし、同僚に混じっての馬の世話、時に応じ、自らが持ち込んだオーパーツにかかわるご下問に答えること。
 中でも馬術書への人々の関心は強く、翻訳事業が起こり、彼の身は否応なく、その中心に据えられた。
 これは楽な作業ではなかった。簡体字の一句を類推するにも、薄手の辞書を睨みつつ、凡庸な言語野をフル回転させねばならず、支援のため、事業主体の尚書部から、馬術に明るい役人が専属でひとり厩舎に派遣されるに至った。
 その大業も、三年目には全項の半ばに達し、彼も妻をめとり、都の一角に家を構えるまでになっていた。

2



 夜更けから積り始めた雪の明かりで遺書をしたためた。  
 明ければ晴天の下、一面の雪景色で、折りしも季の節目の休日のこと、まだ人影も荷車の轍もない。
「ほな行ってくる。心配要らん。噂は噂や。寒いから早よ、中、はいっとき」
 妻子にそう言い置いて扉を閉め、新雪の中に踏み出した。
 とつとつと足跡を刻みながら考える。
 強く望んだから、ここへ来られた。あの親方には悪いが、そう思っている。ここは自分が読み馴染んだより古い時代、三国どころか秦漢よりさらに前らしかったが、それは二の次、ともかく殺人の汚名と借金から逃れ、こうして家族も仕事も得ることができた。出来過ぎではないか。
「今度はヘマできんで」
 兵部省の四つ辻を抜けると、向かう楼閣の長い石塀に当たった。
 その厳粛な佇まいが、奈良生駒の少年刑務所を思い起こさせる。
 門で、鎧兜の衛士に符を示して建物に入る。愛想のない女官のあとについて、長い廊下をめぐり、寒い控えの間で半刻も待たされて、ようやく謁見の間に招き入れられた
 酒席など影もなく、神妙な面持ちで女官が居並んでいた。
 一番奥の壇上、胸の高さの御簾を隔てて主人が座り、目下の客を威圧しつつ拝眉の栄を与えるという形である。
 一人いる男の役人に朗々と名を呼び上げられ、練習とおり、段の下へ進み。そこで両膝をつくと、頭を地につけた。
「李典偉にございます」
 傾国の妖姫と呼ばれるものが、すぐ目の前に鎮座していた
 この低い位置からは顔も窺えようが、むろんそれは法度である。どうにか見える手指といえば、美しく整えられ、色は今日の新雪にも紛う。これでダンビラぶんぶん、いうのはさすがに嘘やで。
「馬」
 いきなり嘲りを投げられると 予期せぬではない玩弄がそこからはじまった。
 貴婦人は壇上から扇子を三度床に投げ、彼はそれを三度拾い奉じた。
 三度目に寄ったとき、女の手には、例の簡体字の馬術書の原本があった。細い指先が項を繰ったと思うと、意外な質問が頭上から降った。
「この文を書いたのは誰か」
 挟まった紙片、注釈の添えられた栞をひらひらさせる。
「尚書部の役人でございます」
「名は何という」
「失念いたしました」
嘘である。覚えていた。のみならず、その若い役人には特別な友情を感じていたので、万一にもこの席から禍を及ぼすことは避けたかった。
「偽るか、痴れ者」
 即座に扇子で頬骨を打たれた。さらにその先端で額をこじられる。
「それが通ると思うか」
 忍辱と諦念の感覚が、また体を浸す。それはいつ以来自分の中に積み重ねられてきたのだろう。受刑以来、事件以来、親をなくして以来? 無駄にデカいから、貧乏だから、前科者の根無し草だから?
 そのとき相手の体がくの字になった。何かと思うと、声を殺し笑い崩れているらしい。
 そしてやおら背を伸ばし、腕を一振り、頭上から御簾を払った。
「忘れたなんて、すげないこと言うのね」
 錆含みの渋声が、銀鈴を振る華やかさに一変している。見上げれば、そこでは明眸皓歯の麗人が満面の笑顔を向けていた。 
「あ、あんたかいな」

3


 
 最初の出会いは、四年前、都大路、朱雀大橋の事故現場だった。 
 荷馬車同士が正面衝突した。馬が橋を踏み抜き、手綱は絡み合って立往生。馭者は殴り合い、散乱した積荷の蜜と豆めがけて黒い網のように蟻がたかり、野次馬もアヒルも豚も犬も集まっての阿鼻叫喚。
 馬の鎮静・誘導役に呼ばれた自分も、他の者同様、遠巻きに手をつかねていると、若い略装の役人が、向こう岸から、細い欄干をひょいひょい踏んできた。
 その若者は擬宝珠の上にすっくと立つと、一同の注視を促し、即席の点呼を取った。帳面と筆を手に、そのまま流れるように、四人の当事者から事情聴取し、四の役所に仕事を割り振ってみせた。 
「あんたのお裁きで助かりました。どこのお役所のひとですか」
 そう褒めると、
「何言ってるんだ、尚書部に決まってるだろ。今日からのキミの相棒さ。小騎尉って呼ばれてるよ」
 小柄な若者を、彼はまじまじと見た。顔が小さい。手足がすんなり長い。イデタチといい、えらいシャキッとしたシュッとしたイケメンやのう。
 
 これが馬術、言語センス両面からも、優秀な人材であることはすぐにわかった。
 ついでにこの若者が、実は若い娘であることにも、さすがに三日目には気づいた。何か相当な子細があるらしい。
「いっぺんだけ、わけ聞かしてくれへんか」
「いいよ。答えよう」
 三年前、彼女の故郷・鳴条が華に服属した際、名産の駿馬二十頭を朝貢献上するにあたり、輸送隊長を務めたのが、領主の姫、まだ十八の彼女だった。上京してそのまま宮廷の尚書郎に任ぜられたのは、人質の意味合いである。
 人質には世継ぎの男子を要求されたが、鳴条の世継ぎは男子でない。そこで記録が調整され、彼女自身はその記録の影として生きることとなった。呼名の騎尉というのはかつての父の形式的役職という。
「なんや複雑やねんのう」
「キミに言われるとは思わなかったわ。ふふ」
 眩暈がした。言葉のジェンダー位相が変じている。そもそもこの国の語尾に男女の別はない。あくまで彼の脳内の出来事である。その後も彼女の言葉は、時によって赤へ青へと色を変え、彼を戸惑わせた。
 二年間のお役目を通じて、ともに何をしたか。
 ひとつの杯で酒を飲んだ 一度は一枚の茣蓙で背中を合わせて寝た。向かい合って槌を取り、ひとつの金床に青銅の馬具を打った。
 してあげたこと。
 落馬してくる小柄な身を抱き留めた。足を痛めたとき、包帯を巻いたうえ、一里を背負って歩いた。炊事が得意だったので多く担当し、彼女の好きな食材を得る努力をした。
 してもらったこと。
 お役目とは言え、とにかくよく話を聞いてくれた。自分の思考に寄り添って、簡単に妥協せず、いつも表現したい最適のことばを探してくれた。
 話題は馬具にとどまらず、身の回りのことから天下国家、ついには前世界の事象におよんだ。その中で将棋という遊戯に関心が向いたらしい。自分が手すさびに削った駒を弄るうち、ルールを覚え、対局を重ねるまでになった。
 それだけ密に接した相棒だったが、三年目のある日唐突に厩舎から姿を消し、いつもの位置には後任者が座っていた。彼は落胆し、その不人情を呪ったが、将棋の盤と駒が持ち去られていることに、一縷のよすがと慰めを見出した。

4



「可愛いらし顔してるとは思てたけど、おんな氏なくして… いや、氏はあったんか」
 食事の席に酒が出て、重い口が軽くなっている。
「後で厨に案内するわ。ご家族のお土産、沢山もっていって。ひとりで背負えるくらいなら、公私混同にもならないと思う」
「いや、その公私混同ですねんけど、あんた、自分の評判、知ってますか」
 促す相手の目は笑んでいる。
「まるで妲己みたいに言われてますで」
「知らないわ、誰」
「封神演義のラスボスやがな。殷の最後の王さまのごっつい悪いお后」
「具体的にはどんな感じ」
「高価な絹を粗末にしてどないやら、酒池肉林がこないやら」
 目はまだ笑っている。
「忠臣の首をはねたやらいうのは」
「忠臣、ではないけどね」
 声が低くなる。
「ホンマやったんですか」
「わざと惨たらしくしたわ。食卓の布が染まるように」
 目の前が不意に歪んだ。ここにあるテーブルクロスの白が、神崎川原の芝に積もる薄雪に重なり、パトランプの光がオーバーラップする。意識が彼方へとさまよいだし、抜け殻になって体の動きが止まる。 
 気がつくと下から顔を覗き込まれていた。
「平気?」
「ああ、うん」
「私が怖くなった?」
「い、いや」
 目を合わさぬまま口先で応じるのが精一杯だった
「景色のいい楼上でお茶にしましょう」

 ひとり先に楼上にでれば、全都全周の雪景色が望めた。風はなく日差しは暖かい。市中をめぐる水路の面は青空を映し、そこを雲が音もなく渡ってゆく。街の人出も疎らである。
 東の五丁先に、二百坪ばかりの桃林が見えた。
「ここからやったら、すぐ近いねんな」
 四年前の春の休日、満開のその枝が花弁を散らす中で、果実酒を傾けながら、二人で将棋を指した記憶がある。
 彼女はその日、二段の猛者である自分を平手で破った。ルールを覚えてわずか二月。未見の振り飛車さえ指しこなす才気に呆れて、つい軽口した。
「あんた、そのうち、盤の外で、ひと旗上げたらどないや。豪族の跡取りなんやしな」
 相手は頬を染めて笑った。
「そのときは、キミを一番の家来にしてあげる」
「それは楽しみや。待ってるで」 
 それはなんと何気なく他愛もない受け答え。そして今となって、それはなんと軽はずみで身の程を知らぬ答えだったろう。
 見上げれば、鳶が一羽、空に輪を描いていた。 

5


 上がって来た彼女は、『三国無双』の孫夫人のような動きやすい軽装に、厚手の上着を羽織っていた。
 炭の燃える炉をはさんで、熱い茶碗を手に取った。寒暖のコントラストが心地いい。
 彼は切り出した。
「ひとつだけ聞いてええですか」
「うん」
「前の世界で、人を殺してしもて、二年牢屋に入りました」
 美しい双眸が見開かれる。
「なんぼ考えても、悪いのは死んだそいつですねん。でも、あいつにかて人生があって、親が、未来の子孫がて、そう考えよったら」
 両手首をそろえて目の前に掲げた。
「考えよったら、こうして手が震えるんです」
 それは苦い記憶が残る罪人の仕草。
「あんたは、そういうこと、ありませんか」
 問われて、彼女は口を開かなかった。しばらく目の前の両手をじっと眺め、また目を閉じて何か考えていると思うと、やがて双の白い手が伸べられた。柔らかく男の両手を包むと、ひとまとまりになった四つの手は、そのまま数瞬、澄んだ空気の中に象嵌されたように静止した。
 彼は嘆息した。
「肝がすわってはんな。さすがや」
 そっと左右の支えを払えば、武骨な両手はまた不似合いに震え出す。
「こっちはこのザマですわ 笑うでしょ。この名、この体で、普段は偉そうなこと言うてるのに。せやけどこんな男でも、家に帰れば四人家族の大黒柱ですんや。職場でも…」
「その家はどれ」
 珍しく言葉を遮られた。 
 彼女は椅子に脚を組んだまま、風に目を細めて下界を眺めている。彼は手すりから身を乗り出すように、北西の一角指さした。
「あの池の南。同じ瓦の色、三軒並びの真ん中です」
 それから聞かれるままに、家族について語った。
 身寄りを流行病で無くした妻のこと。生まれた男女の双子のこと。家族が増えるたび、一本ずつ庭に植え足してきたスモモの木のこと。
 彼女の面持ちは昔のまま、ただ自分の言葉だけが三年分流暢になっていた。
 
 終わりの気配は、白い指による女官への合図だった。
 それを承け、ひとかかえの風呂敷が運ばれてきて卓上に載った。
「長いこと借りてたね」
「ええんです。かえって嬉しかった」
 将棋は本来、自分の唯一の特技だったが、彼女には頭の体操以上の何でもない。
「風が出てきたわ。もう降りようか」
 髪を直しながら席を立った。
「キミのことも、そろそろ大事なご家族へお返ししなくては」
 いささか皮肉に響くのは、いたしかたない。耐える。ここさえ凌げば、本日の会見、意外につつがなく終了する見込み。あとはお土産を頂戴するばかり。子供たちの好きな乾燥無花果と、調理に使う菜種油。できれば何か調味料、胡椒、丁字、八角エトセトラ、
「騎尉くん! 美人さん!」
 椅子を蹴倒して立ち上がる。自分でも思いがけず大きな声が出ていた。
「ん?」
「罵しってくれへんのですか。へたれ、腰抜け、軟弱者、て」
 強い視線がぶつかる。
「それがキミの望み?」
 深く頷く。
 だがそれに対しては、微かな笑いが漏れた。
「もういい。こうなるのが分かっていたから、意地悪は、最初に済ませておいたわ」
 再び階下へと足を向けながら、彼女は確かにこちらへウインクを投げた。

6



 帰り道、風呂敷包みを背に、人の行き交う朱雀橋を渡りながら一度だけ振り仰いだ。
 楼上、もはや人影はない。
 おそらくもう、会うことはない。
 はるか未来から呼ばれながら、乱世に覇を唱えず名も挙げず、自分はこのままこの時代の市井に埋没して一生を終える。それでいい。それ以外の幸福などない。
 千里の道のりを越え、幾千年の歳月を跳んで、手と手を重ねてもなお、なんと自分たちの世界は遠い。
 目の前にかざせば、見慣れた大きな手は、まだ心細げに震えていた。

※参考文献 ウィキペディア ●夏(三代) ●末喜