B11 手探りカデンツァ

 油断をしていたのだと思う。
 私が見た時点では時計の短針は6の数を指していて、定時はとっくに過ぎていたし他に人影なんて無いと思っていた。
 だからこそ私は印刷室の複合機を3台全て占拠して、轟音を立てながら吐き出されて行く五線譜の束を眺めては「全部で何枚刷るんだっけ」なんて考えながら、残りの印刷枚数を頭の中で計算していた。
 裏表のパターンが5種類で、それが40部ずつ。1番速い排紙設定にしてはいるけども、用紙を裏返したり新しくセットする時間も考えると7時までかかってしまうのではないだろうか。
「早く帰りたいのに……」
 思わず声が漏れる。けれどそんな言葉に意味なんて無いから、今は忙しい時期に仕事を引き受けてしまった自分自身を呪うことにする。
 両面印刷の片側が終わり、残りの片側を印刷するために用紙を裏返してもう一度複合機にセットしようとした瞬間、背後から物音がした。
「あれ、くらもっちゃんじゃん。プリント印刷?」
 印刷室の扉が開いて、閉じる音よりも早くに声が続いた。
「そうなんです。明日必要なものを忘れていて……」
 壁に沿って並ぶように配置された複合機から目線を外して振り返る。扉の方には左半身だけを印刷室に踏み込ませた状態の窓野くんがいた。……そもそも姿を確認しなくても「同期だから」と何度も話して聴き慣れた声と、私の名前を「くらもっちゃん」なんて独特の呼び方をするところから、彼が来たのだと気付いてはいたのだけど。
 扉が開く前から足音だけは聞こえていたので、誰かが入ってくるかもしれないという心構えはしていた。だから、別段戸惑ったりはせずに対応できた。……はず。
 ともかく彼は今、扉のところから様子を伺っているだけ。ともすればまだ間に合う。
「もしかして、窓野先生も印刷ですか?」
 まさかこんな時間に人がいるなんて思わなかった。その感情込みの“もしかして”を悟られてはいけない、と思いながら会話を続ける。
「誰もいないと思って全機使ってしまってごめんなさい。1つ開けましょうか?」
 返事のないまま言葉を続けては身体を動かす。窓野くんに見えないように、気付かれないように、五線譜を移動してしまう。幸いなことに1台は既に裏面印刷をする用意をしていたので、印刷済みの部分が下側に隠れていて見え辛いはずだ。そして、その1台は他の2台と少し離れた位置に置かれている。窓野くんに反対側の1台を譲ったとして、このまま排紙を始めても見られる可能性は限りなく低い。
「いや、俺はもう帰ろうと思ったんだけど。印刷室に誰かいるなって思って」
 挨拶だけして帰ろうと思って。という声を聞いて安心する。ならばあとは窓野くんを印刷室に侵入させず、終わらせてしまえば良い。
「……なんだったら手伝う?」
「大丈夫!」
 こちらの様子を伺うように成された提案を瞬発的に却下したので、不自然に見えたかも知れない。未だ扉のレバーを掴んだままの窓野くんが首を傾げながら送ってくる、私を訝しがる視線が痛い。
「ほら、電車。最寄りの駅って10分に1回しか来ないじゃない? 早めに出ないとタイミング悪いかも――」
「俺バイクなんだよね」
 窓野くんを早く追いやってしまいたい。その気持ちが逸ってこちらからも提案したけれど、それも空振りに終わった。
 背中からじわりと、嫌な汗が出ている気がする。この緊張感は嫌だ。
「ん。じゃあ俺帰ります。お邪魔っぽいんで」
 もういっそのこと、バレるならバレてしまって欲しい。そう思い始めた所で諦めてくれた。とは言え、素直に諦めたとは到底思えない。
 猜疑心の残る呪詛が気になるけど、それよりも私には責務が重要だった。こうなったら早く終わらせなければ。

 両面印刷の済んだB4用紙を持ち上げて、持ち合わせの鞄に入れようとした。
「で、これはなんかの楽譜?」
 その瞬間に背後から声を掛けられた。
 音もなく近付いてきた思い掛けない声に驚いた私は、情けの無い悲鳴を出しながら足から崩れ落ちて、手にした紙束も全て落としてしまった。



 横領、窃盗、公務員職権濫用……は違うか。
 頭の中に1つずつ、堅苦しい漢字とともに自分の名前と、目線を隠された写真が載った新聞紙が過ぎる。
 終わった……。憧れの教師になったのに、たった1ヶ月で。
「ねえ、くらもっちゃん。これ1種類40枚で良いの?」
 学生時代から続けている趣味の合唱。その交友関係から、職場の印刷機を使った楽譜の印刷を依頼された。「授業プリントだからとかなんとか誤魔化してさー」なんて言われて断れずに引き受けてしまって、それをそのまま実行したばかりに……。
 しっかり考えれば良くないことだとわかるんだから、断ることができないにしても、最悪印刷代くらい私が払ってコンビニコピーでもしていれば良かったんだ。
「くらもっちゃん?」
 学校を辞めさせられてこれから私、どうしたら良いんだろう。別の県に移っても、やっぱり噂は回るよね。
「くらもっちゃんって、そこまでモチモチはしてないね」
 その“くらもっちゃん”って呼び方、私にモチモチ感があるみたいで嫌だからやめて欲しいんですけど。って――
「……ふぇ?!」
 文句が言いたくなって窓野くんを睨みつけてやろうとしたら、目の前に件の男の顔があってびっくりする。
 伸びすぎて鬱陶しそうな前髪の隙間から覗くぎょろっとした瞳は、いきなり見るには心臓に悪い……のだけど、それよりも
「ふぁんれひほほくひひひゅびいれてるんでふか」
 決して細くはなく指の腹も硬い、男性らしくしっかりとした指が私の左頬を唇越しに挟んで引っ張っている。何をしているんだこの人は。
「いや、なんか廃人みたいに呆けてたから」
 廃人ならおもちゃにしても良いとでも……?
「でもほっぺ、スベスベで良いね」
 俺なんかそろそろガサガサだから、と付け加えながら先ほどまで私の口腔内にあった指で自身の頬を引っ張っている。その様子を見て、正直私は引いた。
 ……そういえば、窓野くんって変な噂があるんだっけ。他の先生とは一風変わった髪型や態度から、何を考えているのかわからない所がミステリアスだとか、そういうことを生徒が言ってた気がする。
「で、印刷してた楽譜って40枚で良いの?」
 そう言えば落としてたんだっけ……。
 作業机に乗せられた五線譜を確かめると、種類別に分けて綺麗に積み上げられていた。
「たぶんそれ、まだ印刷しなきゃいけないんだよね。途中の小節抜けてるし」
 そして、当の窓野くんは私の手荷物を探り始める。
「ちょっと、何してるんですか」
「いや、次の原稿どこかなって」
 話の流れ上、何をしたいかはわかってる。けれど、それを実際に行動する人がいますかって話で。
 助けてくれようとしているとは言え、他人に私物を漁られるのはやはり恥ずかしい。
 そんな私を放って、「そこか」と言わんばかりに手提げ鞄に目を向けた窓野くんの手を追って、捕まえる。
「そもそも、どうして手伝おうとしてるの?」
 掴んだ手首を持ち上げて、問いただす。本当は顔の高さまで持ち上げたかったのだけど、力の強く込められた右手は腰元辺りで止まっている。
「……もしかしてチクるとか思われてる?」
 窓野くんに対して抱いている疑念だけど、直接言葉にされると心が痛んだ。疑っていると思われるのは、やはり気分が悪いだろう。
 けれど普通はそう考えるのではないか。私たちは曲がりなりにも公務員だ。不正は良くない。
「すると思うの? こんな見た目の、変な話し方の若者が」
 でも、言葉を続けながら掴まれていない方の掌で前髪を暖簾のようにパカパカと開閉する姿に、思い込みが過ぎたのかと思わされる。
「それに、こんなんみんなやってるでしょ」
 そうして今度は、私が作り出した五線譜をヒラヒラと振って見せる。
「ちゃちゃっとやって、ちゃちゃっと帰ろうよ」
「……うん」
 ニッと音がしそうな勢いで笑う窓野くんに促され、私は止めていた作業を続けることを決めた。



「これで終わり?」
「うん。枚数も合ってるみたいだし」
 ただ印刷するだけの単純な作業だから特筆することもないのだけど、印刷ミスの有無や枚数確認の手間が少なくなるのは大変助かった。
「ありがとうございます。あの、このことは内密に……」
 五線譜を全て手提げに収納してから頭を下げて、その上でもう1つお願いをする。自分勝手に触れ回る手癖の悪さから、やはり軽薄そうなイメージが拭えない。
「あー、そのことなんだけど」
 が、一筋縄ではいかないようで。ん、と言いながら右手を上向きに開いて差し出してくる。
「お金?」
 人格を疑う、なんていうのは私が言ってはいけないのだろうけど。「みんなやってる」とまで言い促したのはあなたでしょうに、と思ってしまう。
「違う! ケータイ、貸して」
「携帯……?」
「連絡先、知らないから教えて。くらもっちゃんに興味湧いた」
「……え?」
 訝しがる私の気持ちを察したのか、用件を続けて説明してくれた。
 学生時代から「面白みがない」と言われ続けた身としては、聞き馴染みがなくて照れてしまいそうな言葉に焦ってしまう。
「気が向いたら連絡するから。そん時に付き合ってね」
 他人のものだというのに私のスマホをすいすいと操作する窓野くんは、あっという間にラインの友人申請を済ませてしまった。
「これね、俺だから」
 窓野くんが画面をつんと指差して、詳細が表示されたアカウントを注視する。
 スマホの画面には、どこか薄暗い場所で赤い光に照らされる、ギターを持った男性の写真が出ていた。
「ラインは他の人に教えてないから。内緒にしといてねー」
 映し出されている写真データに理解が追い付かない私を放置して、印刷室を出ていくのだけど、これは秘密の共有……なんだろうか。

 自分勝手に物や人に触れる神経はいただけない。けれど、自分勝手に掻き回していく手がどのような音を鳴らしているのか。そこだけは興味を持っても良いのかも知れない。