C03 死の手招き

死の手招き
 死、それは他界するという事であり、文字通り他の世界に逝くということ。それが無であるのか天国や地獄の様な世界が存在するのかはさておき、今の世界に存在する限り絶対的に把握不可能な空間であり、たとえ誰かが臨死体験をしただとか、三途の川から石を拾って帰ったと言っても信じるのは困難。その結果としての永劫未知の領域であり、分からないものを恐れることは人としてそう不思議なことではないのだと思う。
 私も、私は、死が怖い。中年も半ばにさしかかった50後半にも関わらず、さして体調に不備もない夜に訪れた咳払いや倦怠感。そんな些細な事を起因に死を意識した時、死がまるで手招きをしていると感じることがある。死を意識した時の焦燥感、振り解くことの敵わない鉛が全身に覆い被される感覚、それが肺の中を充満するような最悪の感覚。そうした時の思考は決まって残りの生が何年あるのかと考えるに至る。そしてその間に何をなせば満足のある死に行き着くのかと考察を始める。もし結婚でもしていれば、子供があれば違ったのだろうかとも考えれるがそれもまた未知である。それは一般的に幸福な人生の模範として描かれる構図ではあるし、生物としては間違っていないはずだ。ただ、同じ月日で白寿(99歳)になった祖父祖母に夫婦円満のコツを聞いた時、口をそろえて『妥協』と答えた事を思うと言い切れないものも感じる。模索するほど、死んでもいいと思えるほどの幸福はどこにも見当たらない。無いかもしれないものを渇望してしまう。それは最高に無駄な時間であり、最悪の展開だ。
 そんな苦悩を持つ私の死生観は両親の死からきている。健康な両親だった。父は一日三食の食事を残すことない。補助食品の知識にも明るく、と言うのも栄養士という職業からきている事が多聞にあり、母は体育大学出のスポーツインストラクター。見るからに健康な人だった。実のところ、あまり家族愛というものは無かった様に思う。栄養管理にうるさい父は私の偏食を許さなかった。ピーマンを前に小一時間、正座で説教を受け、弁当には今朝に残した納豆が水気を失った姿で入っていた事は今も許せないし、母は体育塾とスイミングスクールを強要し、記録や姿勢に逐一口を出した。学校の成績で体育が3で国語が5の5段階評価の私にである。
 そんな両親の死は、意外な程に呆気なかった。交通事故の即死だったそうだ。あまりにも呆気なく、実感が遅れてあまり泣いた記憶はない。初めて泣いたのは祖母が取り仕切った葬儀が終わり手を合わせた時、思い出が吹き出した時だった。様々な料理で私の偏食に苦心した父の姿、共働きながら時間を作って体育塾に見学に来た母、あの交通事故も仲睦まじい両親の結婚記念日の旅行だった。息子が高校生にもなってそういう習慣を持つのは私の周囲からすると仲睦まじいという事になるらしく、そんな両親はそれぞれの分野から私を優秀なスポーツ選手とする事が夢だった。不思議だ。こうして墓前で思い返すとそれほど両親に恨み辛みなどない様に思えた。むしろ、そんな両親の死に涙の一つも流せなかった自身への悔しさ、情けなさが止めどなく溢れて泣いた。付け加えて、両親の前で亡くした悲しみでなく、そんな自己嫌悪に泣いている自身に泣いた。
 そして私は死が、健康な者にも唐突に訪れると知った。そもそも健康か否かなど医者に常時診られて無ければ完全ではないし、医者にも外科、内科、泌尿器科と様々の専門分野があり、問診の出来次第では結果も変わる。いつの時代からかは分からないが、最近の医者は問診結果を病院のパソコンにカタカタと打ち込んで結果を占う光景が増えた。簡単な花粉症の診断、医者がパソコンに打ち込んだ検索ワード
『咳、鼻水、めちゃダルい』
は問診結果をそのまま打ち込んだ結果
『症例:花粉症の疑い 薬:●●●を推奨』
パソコンに表示された結果そのままの薬が処方された。余談だが、最近は明らかに花粉症、風邪と思われても断定はしないのがクレーム対策の処世術。そう聞くと問診結果を打つだけで断定もしなくていいなら私も医者に…と、それは置いておこう。とにかく、医者でもない私には自身の体の異変すら全ては理解出来ない。医者も確実では無く、そもそも未知の病も事故もあるのがこの世の死因。ならば、完全な対策など望めるものではない。どこかの水準をもってあきらめる必要がある事案なのだろうが、私以外の人間はみんなそれを今納得して受け入れているのだろうかと思うと実に不思議に思う事から、私は本心においてこれを納得していないのではないかと思っている。
 そうこうして時に死と向き合いながら齢60を迎えたある日、小学5年の同窓会が開かれた。主催地は参加費5000円にしては良い宴会場だ。宴会シーズンである年度末にこんな良い場所がおさえられるのはまあ、主催者である彼の手腕が相変わらずだという事だろう。5年ぶりの同窓会ではあるが、私の思う一般論においてこの開催頻度はやや多い部類かと思う。因みに小学6年の同窓会は一回も無い。卒業式にタイムカプセルを埋めて泣き、抱き合ったにも関わらずだ。考えるに、修学旅行を経験した小学5年という年の親睦が深かった。また、学級長が『実業家』の愛称を持つ人格者だった事に起因する要素は深い。思えば小学6年の時の学級長はくじ引きで当選した男で、たしか、あだ名は『鼻水バズーカ』だった。彼にこれと言った思い出はないが、あだ名から察するに、そういう事なのかもしれないがまあいい。私にとっても最も会いたいクラスメイトは小学5年の彼らである。それは卒業後10回近い開催によって深まった親睦もあり、地域によってよせ集まった小学生頃の同級生の現在は学力に似通った高等学校以降の連れよりも職業、思考において多様であるからであり、主催者の『実業家』もそれをコネクションとして有意義に思うからこそご丁寧に次回開催日まで事前に確定させて定例開催をしているのだろう。もっとも只のサラリーマンでありキラリと光る趣味や特技も持ち合わせない私にとってコネクションなど持つ意味は無いのだが、単純に大学までを共にした一番の親友と、高嶺の花だった彼女がこのクラスにはいる。そして何度かの開催を通じて今では誰一人として全く話さない者はいない良い集まりとなっていて、参加率も良好だ。総勢28名、ベビーブームの影響の残る当時にしてやや少ない理由は学年クラスが3つで収まらず4つに分断されていたからで、小学五年生のクラス分けが貼り出された時には4クラスという今までより低確率の中、親友と気になる女性が同じクラスになった事には柄にも無いガッツポーズをとり親友と抱き合いながら、彼女の姿を目で追っていた。当然、私がこの同窓会で最初に目をやるのも彼女だ。私が婚期を逃した原因、というのは彼女に失礼だろうから思わないでほしい。分かっているのだ。一番の原因はこの偏屈な性格だ。次に容姿。不細工ではないと確信している。ただし、中肉中背童顔。逆説として特徴的なほどに私は個性から見放された容姿をしていた。そんな私の外見でクラスのマドンナだった彼女に声をかける事なんて出来ようはずもない。とにかく、外面も内面も私は恋に不向きな性質だっただけの事であるが、なぜ、彼女は結婚しなかったのだろう。
 彼女はあの頃からクラスの誰もが認める美人だ。それは容姿的なものだけではない。所作が美しく、健康的で清らかな姿勢を保つ、無邪気な笑みを浮かべる隙のある笑顔を持った、聞き上手でありながらユーモラスな会話に富んだ外面内面共に美しい女性だからだ。分かるだろうか。外面とは整形を除く意味で先天的な美しさだ。もちろん、美容面での努力は他にもありそれを否定しないが、今は趣旨が違うと思ってほしい。そして姿勢や話術、性格、こういった内面的美しさは後天的な美しさなのだ。つまり彼女は生まれながらに美しいだけでなく、これまでの人生常に美しくあり、美しくあろうとしてきた事に他ならない。分かるだろうか、つまり時間軸において彼女は生涯美しく、やめよう。なんだか、この考察は私が彼女を好きなことを重複して伝える意外の意味を持たない気がしてきた。とにかく、控えめにも彼女はこのクラスの総意の美人だ。外見として遺伝、栄養価、あと高身長の外国人とのハーフが少なかった等の理由から今より平均身長の低い当時にしても小柄な155に僅かに届かない可愛らしさを含み、スタイルも良い。今でこそヘアスタイルは年齢相応に活発な印象を与える様なベリーショートの白髪だが、若い頃は艶やかな長い黒髪をなびかせていて、そのどちらも堪らなく似合っている。なぜ、結婚は元より、本人曰く恋人の一人もいなかったのかは、分からない。ただ、一人暮らしの私と違って同じ独り身でありながら孤児を招いた彼女のあり方はさながらに聖女で、美しいと思うのだ。
「おいおい、また彼女に見惚れてたのか?」
 こう言う事を考えているといつもそうだ。親友曰く目で考えが分かるとか、心の鼻が伸びてるだとか、とにかく長い付き合いの悪癖だ。さすがに今は他のクラスメイトと同じ5年来の出会い頭だというのに首に腕を回し屈託の無い笑顔で飛びついてくる。どこまでも気さくな男。なのだが、今日はその姿が無い。あのお祭り男にしては珍しいとも思ったが、その時はそう気にとめる事も無かった。5年来が次回開催の10年来になる事はそう些細でもないかもしれないが、かつて一度も無かった親友の邪魔も無く彼女と話せる機会を大切にして何が悪いとは言われないだろう。実際28人が27人になったところで人気者の彼女と話せる時間はそれほど多くなかったが、少なからず、浮かれる様な会話もあった。いくつか交わした会話の中で、彼女にとって私は『気になる異性』だった事があるらしい。驚愕だった。考えたことも無かったが妄想はしたことのあるシュチュエーションで、それはつまり無い以上にあり得ないと思っていたからこそ妄想に至った展開だった。流石に60歳の男女だ。彼女には旦那はいないが子供も孫もいる。本音は私もと答えたかったし、好意を向けられた期間も知りたかったが、その好意の理由が彼女の落とした消しゴムを拾って届けたこと。照れ隠しにそっぽを向きながら差し出したハンカチに包んだ消しゴムは、今思えば間抜けな照れ隠しだが、そんな些細な出来事が、彼女の好意に触れていて40年以上経った今なお彼女の記憶の中に根付いていると言うことには感無量だ。
 同窓会を終えても、私の幸福感は長く続いただろう。もし、あんな事が無ければ私の死の執拗な恐怖を30年以上取り払い、毎日の足取りをミュージカルよろしく歩行からスキップに転換していたかもしれない。もっとも、平均的にすり足で小さな段に躓きがちな高齢者予備群がそういった歩行をすることはかなり身体的に危険を伴うのだが、しかし、一般認識にある1956年にWHOが平均寿命から推移した高齢者基準の65歳というのは平均寿命の延びた昨今では些かに適応しているとは言い難く、82歳からが高齢者という2018年の正しい区分を見れば私はまだ早期の、中年、あるいは壮年なのだがこれを話すと大抵の若者はどうでも良いと言いたげな表情になるので今回はここで割愛する。とにかく、彼女との会話は私にとってそれほどの高揚感だった。そして、それほどの高揚感を失った理由は、同窓会の翌月、親友の葬儀という形で現れた次の死が原因であった。平均寿命から見ればあまりにも若い、28人もいる同級生中一番に死ぬことも無いだろうに、私の一番の親友は棺桶の中で腐食を防ぐドライアイスに冷却されながら5年来の再会を果たした。私は、年甲斐も無く泣いた。親族の誰よりも深く、長く、長く泣いた。彼女に肩をおさえられ、慰められる事を幸福にも思わず泣いた。両親の死で罪悪するほど感じなかった故人を惜しむ気持ちを持って親友の死を泣いた。進行を促しに来た住職に席に促される事に割く怒りの感情が無いほど、私の感情の10割100パーセントをもって60歳の中年が泣いた。
 85歳、平均寿命は伸びているからWHOの定義を更新すればまだ私は中年だろうか。ただ、それをもう調べる気は無い。もういいのだ。高齢者、中年、高年、そんなものはどうでも良い。持病も目立った認知症状も無いという事は幸いなのかも知れないが私にとってなにより幸いだったのは別の事案だった。親友の死は私の生涯最大の涙だった。ただ、人の生死にこういった言い方は良くないかもしれないが、親友の死はあの歳での事で良かったのかもしれない。あの歳だったから、私は彼の死を最大限悲しむことが出来た。全ては60歳という若さだった。私が長く死の恐怖に怯えた時期は親友の死から徐々に薄れていった。あれほど恐れた死の手招きをだ。死に苦悩するほどに恐怖が増した無理難題、しかし、その解答は今この手の内にある。
 なぜなら私は今、あれほど恐れた死の手を掴みまるで友のように握手を交わしているのだ。仮に交友関係を限定してクラスメイト28人の友と両親の総勢30名。その内、今を生きるのは13人。17人が死に、その度に葬儀に出た。14回だ。25年で14回の葬儀に出た。
 度に怒りがあった。残された者の怒りがあった。
家族を残した者、孫の出産前に約束を違えた者、何より私より先に逝った者たちへの怒りがあった。
 度に涙があった。 良き想い出が惜しみに変わる涙だ。
良き想い出ほどに涙は増えた。涙の量が感謝の量だった。
 親しい者が他界する度に、現世の執着は薄れた。
 平均寿命を超えたとき、平均に従って身内が他界する度に、死は恐怖の象徴ではなくなり、私の中でただの常識として理解された。
 そして昨日、彼女が逝った。多くの葬式に出たが看取ったのは彼女が最初で最後だった。養子の子供たちに呼ばれ最期の時を共に過ごした。呼吸器によって妨げられた声は聞きこえなかったが、その口が『ずっと、好きでした』そう言った事は間違い。なぜなら、私は85年ずっと彼女が好きだったのだ。彼女のことをずっと考え、その唇を誰よりも見てきたのだ。『私もだよ』と応えた。涙はなく、微笑とともにその言葉を置いて病室を出た。
 両親、親友、クラスメイト、最愛の人を見送った。
 そして、最愛に属する者が居なくなった時、相対的に見てあれほど嫌悪した死は、数少ない隣人になった。私は、もう死を恐れない。その手招きを手繰り寄せ、その手に口づけをする。多くの葬儀で怒りと涙をした私が自ら死ぬなんて事はない。その時が来て私が人生に満足しているかは、分からない。ただ、生きようと思うのだ。
 その時までを、生きようと思う…ただ、精一杯に。