C05 鏡の中にいて私の中にいなくてあなたの中にいるもの

 深夜2時、真夜中の学校。校庭を横切り、中庭を抜けて、もう使われていないゴミ焼却炉の前を通り過ぎて、旧校舎へ。
 がちゃがちゃがちゃがちゃ。
 赤錆た鍵を廻す。
 ぎしぎしぎし。
 歪んだ扉を開く。
 誰もいないはずの古びた木造校舎を歩む。
 私、学級委員長だから、用務員さんから合鍵を内緒で貰っていた。

 木造校舎、軋む床を歩む。
 誰もいないはずなのに、どこかで誰かを呼ぶ、そんな音がする。
 どんどん叩いて、「ここから出して」と音がするの。

 旧校舎の折り返し階段の踊り場、大鏡の中に白い手が湧いて、「誰か、来て」って呼んでいるの。

 何かいる。怖い……

 そんなうわさ話は、級友から聞いていた。
 だから、真夜中の学校へ来てみたの。

 私の家、古い巫女の家系だから、こういうの、慣れてる。
 懐中電灯なんていらない。夜目に慣れたら月明かりでも平気。
 だって、いつも通っている学校の中だもの。お掃除当番、今週は旧校舎だから、隅まで雑巾かけてるんだから、目を瞑っていても歩けた。

 そして――

 ……とんとん
 ……どんどん

 ……だれか……ここから……だして……

 だれか……

 ……だして

 ぎしぎし鳴く階段を昇る。
 大鏡の前に立つ。
 鏡の中にいた白い手が急に大人しくなる。

 鏡に映る私は、わらじ履きに緋袴の巫女装束姿だった。
 白い手は、私に払われると勘違いしたみたくて小さくなっていた。
 だから、両手を開いて笑って見せるの。
「大丈夫、私は神社巫女じゃないから御札持ってないよ」
 よいしょっと、右手を大鏡に入れた。まるで水のように大鏡の中へ、私の手と白い袖が潜る。

 私の家系は、古くてもう忘れられた民間信仰に縁のある血筋なの。梓巫女とか言うらしいけど、難しいことは、まだ、おばあちゃんから習っていない。土蔵の奥には言い伝えか何かを書き綴った物もしまってあるけど、昔の人の文字は達筆すぎて読めない。
 だから、理屈は解らないけど、私、鏡の中に手をこうやって入れて、中に閉じ込められているものを引っ張り出せるの。
 昔ながらの民間信仰では巫女のお仕事は、いわゆる口寄せとか神降ろしとかそういうのでしょ。さすがに、まだ、中学二年生十三歳の私には、神様とか高級な方々は無理だけど、学校で困っている子を助けることくらいならできる。
 まあ、亡霊さんといっても、同じ学び舎にいる学友なんだから、学生の身分としては助け合うのが正解のはずでしょ。
「おいで、だしてあげるよ」
 呼んだら、ぎゅっと真っ白な手が握ってきた。冷たくて濡れている手。冷蔵庫で良く冷えた寒天ゼリーみたいな手触りの手が、強く握ってくる。
「いくよ」
 大鏡の木製のふちに左手をかけて、よいしょと引き抜いた。

 びちゃびちゃびちゃ……

 たっぷり水を含んだ冷たい音が、擦り切れた板張りの床に弾けた。
 頭から全身ずぶ濡れの小さな男の子が、私の前に無言のまま立っていた。紫色の唇で、黒い瞳が不思議と紅い光を帯びていた。川の水の匂いがした。
 だから、両手を開いて、にっこり笑うの。
「抱っこ、してあげるよ」

 べちゃり。

 男の子の冷たい両手が、私に絡みついてくる。川の匂いがする冷たい水が、薄い布に浸みて肌を濡らす。だけど、抱き返してあげる。小さな背中が凍えて震えていた。だから、私の中の温かさを分けてあげた。鏡の中に閉じ込められていた、この子の中には温かさはないもの。私の中には温かさがいっぱいあるから、分けてあげるの。
 少しの間、ぎゅっと抱っこしていたら…… ふいに、男の子の手が緩んでほどけた。
「あれ? もう、いいの?」
 男の子がこくんと頷く。
「じゃあ、もう、大丈夫?」

 こくん。

 ちょっと可愛い子だったから、寂しそうにしてたから、別れ際に、もう一度、抱き寄せて、その青紫色の唇に、私の唇を重ねた。ほんのちょこっと触れ合うくらいだけど……
 男の子はびっくりしたみたいにドングリみたいな大きな目をしていた。
 でも、私が笑うと、男の子も笑った。    
「ばいばい、また、あした」
 笑って別れて、お家に帰った。濡れたら、ちょっと寒かったけど。

 えっ? 男の子は?
 もちろん、それから毎日、学校にいるよ。
 音楽の授業の時は、一番後ろの席で、合唱のときはちゃんと一緒に歌っているよ。


*  *


 次に気になったのは、隣の組の鈴原くん。
 私と同じく学級委員長で、私と違って野球もサッカーもできるスポーツマンだった。もちろん学業も成績優秀。何でもできるパーフェクトニンゲンだった。

 彼にとって、唯一の例外は、私。

 私、歴史のテストだけ学年一位なの。英語も体育もボロボロだけど、歴史だけはできる。
 ま、亡霊さんたちと日々お話していれば日本史なんて簡単…… じゃなくって、鈴原くんのお話だった。

 気になったのは、彼の瞳。
 最近、急に視力が落ちたの。眼鏡をかけるようになったし、席替えのたびに先生に申し出て黒板に近い席に代えてもらうようになった。
 誰もが、「彼は勉強のしすぎだ」と言うけど、私はそうは思わない。
 隣の組だけど、廊下越しに見る鈴原くんの左眼に、何かいるのが見えたの。

 そう、小さな小さな白い手が、鈴原くんの左眼の瞳孔の中にいて、「ここから出して」とどんどんしているの。
 気が付いたのはいいんだけど……
 さすがに、これは、どうしようかなあ?
 同じ組の中だったら、もう少し、近づくチャンスも作れるんだけど…… 隣の組となると、教室違うから、会う機会があんまりないし、微妙に邪険にされているし。

 先週の中間テストでも、鈴原くんは全教科平均で九十五点だった。私は日本史だけ満点だった。学力考査の結果は、上位十番まで廊下に張り出される。うちの学校の開校以来の伝統らしいけど。
 だから、廊下で鈴原くんとすれ違ったときは気まずかった。全力で睨まれてた。でもね、そのとげとげした視線の中にも、白い手がちらちらと見え隠れしているの。

 さすがに、どうしていいのか解らなくなったから、おばあちゃんに相談した。
 そうしたら、おばあちゃんが言うの。
「あずさのこと、少しだけ知らせればいい。噂話に乗せて……」
 小首をかしげたら、おばあちゃんが笑う。
「眼の中におるというのだから、彼には見えとるよ。亡霊なんて科学的じゃないから言い出せないだろうが……」
 あっ! と、気づいた。
 お互いに学級委員長だから、成績ではライバルというか目の上のたんこぶだから、きっと、鈴原くんは私のことある程度は知っているはず。私が巫女なのも知っている……よね?

 そっか! なんだ、簡単じゃん。
「おばあちゃん、ありがと。何とかなりそうだよ」
「そうかい、頑張りなさいな」
 うん。おばあちゃんは何でも知っていて、やっぱり頼りになるわ。

 あとは本当に簡単だった。
 ちょうどね「将来の夢とかなりたい職業」とか、そんな作文の宿題が出ていたから、利用させてもらったの。作文には、将来は本職の巫女になりたいと書いた。もちろん、嘘じゃないよ。
 学活の時間に、ひとりづつ作文の内容をショートスピーチさせられるから、噂を撒くには便利だった。先生を拝み倒して、わざわざ緋袴の巫女装束姿に着替えてスピーチをしてみた。さすがに足元は上履きだけど。
 それでも、ちょっと話題を作ることはできた。 
「もしも、亡霊とかお化けとか白い手とか……この世ならぬものが見えたら、私、星崎あずさにご依頼くださいな」と、冗談めかして笑って見せた。

 エサは撒いたけど、鈴原くんは釣れるかな? と待っていた。一週間過ぎても音沙汰なしだから、失敗したと、しょげた頃になって反応が戻った。下校時間、私の下駄箱の中に、お手紙が届いていた。
 いわく「相談があります。屋上に来てください……」
 いや、男子でもこういう可愛いことをする子、いるんだと、感心した。

「星崎……あの、その相談っていうのは……」
 鈴原くんがひどく言いにくそうに、もじもじ身をよじって言う。普段のパーフェクトニンゲンで学級委員長の威厳はどこへやらだった。
「白い手が左眼の中で暴れているのね」
 解り切っていることだから、さっくり言い当てて見せた。このセリフへ繋がる言葉を、鈴原くんに言わせるための下準備に、苦労したんだから。
 だけど、鈴原くんは一瞬、表情が凍り付いた。茫然自失みたいな数秒後に、今度はひどく壊れ気味の乾いた笑い声をあげた。
「こいつは、いい。本当に、巫女なんだ、キミは……!」
 私は鈴原くんの声に混じる嘲笑や嫉妬や怨嗟か軽蔑か……何かどろっとしたものに気づかないふりをした。片田舎の民間信仰で巫女なんていう異質な存在は、たぶんそんな目で見られている。ちゃんとした正規の神社巫女ならともかく、ど田舎の因習じみた何かなんて時代遅れもはなはだしい。
 でも、見えるんだもの。仕方ないじゃない。
 だから、温かい日差しの中でう~んと伸びをして見せた。屋上は風が柔らかくて本当に気持ちいい。
「助けてあげる。少しだけ、言うとおりにしてくれる?」
「ああ」
「誰にも、言わない?」
「わかった」
 
 鈴原くんを座らせて、私は上から見下ろすように立った。それから、彼に上を向かせた。両手を添えて、まぶたを指でこじ開けて、彼の左眼だけを開かせた。それから…… 彼に顔を近づけて……

 ぺろり

 うわわぁっ……!

 鈴原くんが悲鳴をあげて屋上のコンクリートに転がった。無理もない。もう、終わったけど。
「な、な、な……なにを?」
 彼は、びっくり箱を頭から被ったみたいに慌てふためく。
 私は、口の中に含んだものを、ハンカチの中に出した。さすがに食べたいとは思えない。
「終わったよ。もう、変なものは見えないでしょ?」
 私が笑うと、鈴原くんは驚いた表情のまま、まんまる目玉で周囲を見回していた。視界に何も映り込んでいないことを慎重に確認してから、安堵の息を漏らした。
「凄いな、星崎、助かったよ」
 私はさりげなくハンカチに包んだものをスカートのポケットに隠したのだけど…… 彼は目敏かった。
「星崎、いま、隠したもの、何だよ?」
「鈴原くんは……見ない方がいいと思うよ」
 ごまかし笑いをして見せた。
「見せろよ!」
 彼の手が強引に私の手首をつかんで、スカートのポケットの中に仕舞いかけていた物を奪った。
 正確に言うと、私、乱暴者や人を見下す人は嫌いだから、抵抗しないであっさりハンカチとその中身を取られてあげた。

 そして――

 ひいぃ!

 私から奪ったハンカチを開いた鈴原くんは、情けないほどに裏返った悲鳴をあげてひっくり返った。
「ば、ば、ば…… バケモノ!」
 どもりながら、恐怖にあっさり支配されてしまい、腰が抜けて転がりながら屋上から逃げ出した。
 まあ、シロウトさんには無理もない。

 一瞬、戸惑ったけど、ここに置きっぱなしにできないから、屋上のコンクリートの上に転がったハンカチを拾った。
 これ、手で拾うと、拾った人に憑いちゃうんだけどね。
 もちろん、私は巫女の血筋だから、憑いても目には問題は起きないけど、別の意味で問題かもしれない。この亡霊さんは明治時代の優秀な官吏さんなの。めちゃくちゃ勉強ができる亡霊だから、憑りつかれると強制的に学業優秀にされてしまう。


*  *


 学業優秀な白い手は、その後、おばあちゃんに払ってもらった。
 だって、夢の中にまで二次関数とか乗法公式とか出してくるんだもの。さすがにお引き取り頂いた。 

 おばあちゃんは私から払った白い手を、ぎゅっと魔法瓶に詰めた。最近は安価なステンレスボトルも増えて便利になったと、おばあちゃんが笑う。蓋をして、テプラで印刷した封印シールを張っておしまい。
 確かに、便利だ。
 昔は合わせ鏡を使ったらしいけど、魔法瓶ならお手軽だもの。

「ずっと、水筒の中にいるの?」
「いいや、魔法瓶の中は鏡張りだから、諦めたら、鏡の向こうの世界へ帰るよ」
 そうなんだ。鏡を境にして、私たちの世界とは別に、「手」が住む世界があるらしい。あの男の子ももしかしたら、川に落ちて溺れた時に、鏡の世界に入っちゃったのかも知れない。溺れたまま行方不明になる人っているでしょ? ね。そういうことなんだ。

 感心していたら、おばあちゃんが変なことを言い出した。  
 ――人間は考えるアシだって、おばあちゃんが笑いながら言うの。
「それ、パスカルさんの葦のお話?」
 おばあちゃんが悪戯っぽく笑う。
「葦じゃなくて、アシ」
 私は小首を傾げた。


*  *


 これは、おばあちゃんからの受け売りだけど……
 鏡の中には、ときおり白い手が棲んでいる。
 正確には、鏡になる物ならなんでもいい。水たまりでも、スマホの画面でも……
 歪んでいてもかまわない。真夜中のガラス窓でも、お鍋の蓋でも、もちろん目玉だって…… 中にいる白い手も歪むだけだから、何も問題ない。

 ニンゲンだけが「手」を持っている。
 考える力を手に入れたら前足が「手」に進化した。でも、それは――どこか歪でどす黒い進化だった。「手」を手に入れて、その手にした物は同族同士で争う狂気と凶器。打製石器から青銅器、鉄器に弓に鉄砲、いまや誘導ミサイルまで。

 だからね、人間は死んだ後も、成仏できなかったら「手」だけが残るの。それは、温かみを失った「手」が生者に嫉妬するから、「欲しい」と思うから手を伸ばすの。だから、それは「手」なの。

 だからね、嫉妬や妬みの心を持つ人の瞳の中には、どんどん「手」が集まってくる。だって、悪いモノにとっては居心地が良いからね。
 鈴原くんは残念だけど、そうだった。私の中にはいないけど、あなたの中にはもしかしたら、妬み好きな「手」が隠れ棲んでいて、悪しきことをするかも知れない。 

 「て」

 不思議と思ったことはないかなあ?

 ひらがな一文字で「手」を表す言葉と音。

 日本語は古い言語だから、ひらがな一文字が意味を持っているの。

 「あ」は「阿吽」の「あ」
 魂魄と呼吸の「あ」
 
 「あ」は、人の魂魄を表しているの。
 だから、「頭」は「あたま」で「あ」をいれた「玉」

 「て」の反対は、「し」
 四肢って言うでしょ。「足」のことは「し」というの。

 だからね、ニンゲンは考えるアシ。
 四肢と考える頭を持った生き物に「手」が生えたの。
 ときどき、悪しきことを考える「あたま」を持ったアシ。
 欲望や嫉妬や羨望の果てに「手」を伸ばすことを覚えたアシ。

 もちろん、「手」には良いこともいっぱいある。
 誰かと「手」を繋ぐことは、「心」を結ぶことへと繋がるから。
 抱っこだって、そう。
 私の中にある温もりと、あなたの中にある温もりとを混じり合わせることだから。
 でもね、心と心を繋ぐのは温かみであって、「手」じゃないの。

 だから、ニンゲンは考えるアシ。
 考える力、魂魄、温かい心の宿る「あたま」をなくしたら……

 「シ」と「手」が残るの。