C07 迷い子の手

 私には左手が二本ある、と彼女は言った。
「左の左手と、右の左手」
 何のことかと首を傾げていると、目の前に掌が二つ差し出されて、ああそういうことかとようやく納得した。
 左の親指は内側にあって、右の親指は外側にある。小指はその逆だ。確かに、ほとんどの人間が左手と呼んでいる部位が左右の肩にくっついている。
 こっそりと耳打ちされた秘密にもっと近づきたくて、膝の上に置かれた手をじっと注視した。指を組むと、親指と人差し指が親しげに寄り添っている。
 どちらの左手も、弦や弓があたる部分が固くふくらんでいた。節がばねのようによくしなるのをダルメイは知っている。細いのに力強い。音楽のための手。演奏を終えたばかりの指先には、まだ音の欠片が熱をもってこびりついているような気がした。
 彼女のことは子供の時から知っているのに、今まで少しも気づかなかった。
 それに、とダルメイは視線をさらに上へと移した。
 滑らかな肌と漆黒の瞳、緩やかに編まれた淡い金の髪。夏らしい、爽やかな薬草の香りがふわりと暗がりに広がる。
 気づかなかったのか、気づこうとしなかったのか。
 ハノンは、こんなにも美しい娘だっただろうか?
 彼女は旅の楽師だった。毎年、夏至の祝祭の時期になると仲間と共にこの国にやってくる。
 旅人には旅人の暦があるものなのか、その年も楽師の一団は、夏至の祝祭のちょうど一日前に王の館の戸を叩いた。楽士たちの歌と音楽は、甘く清々しい夏のにおいを連れてきた。気の遠くなるほど昔から伝えられてきた懐かしい響きが、巧みな指使いで新しい命を与えられる。まるで魔法の業だった。
 もっとも、人々はみな楽師らを敬ってはいたけれど、同時に恐れてもいた。他の旅人にするように、遠い土地の話をしてくれとせがむ者も、名産の葡萄酒をたっぷり注いだ杯をすすめる者もいなかった。王の三番目の息子であるダルメイを除いては。
 夏至の夜、人々は闇が深くなるにつれて益々さかんに火を焚き、杯を空にし、狂ったように歌い踊った。
 ようやく王館の前庭に静けさが訪れたのは、月が物見の塔に差しかかったころのことだった。
 物陰で休んでいるハノンを見つけ、ダルメイは声をかけた。
「見た目ほど使い勝手が悪い訳じゃないのよ。ナイフはちょっと使いづらいけど」
 かける言葉を探しあぐねていると思ったのか、ハノンはいたずらっぽく微笑んだ。
「だからかしらね、料理は下手よ。この世のものとは味がするんですって。ねえ、今年の演奏はどうだった?」
「素晴らしかったよ」
 頭が真っ白になって、気の利いた誉め言葉が出てこない。
「どこが」
「全部」
 事実、ハノンの弾くフィドルの音色は特別だった。美しいだけではない。空気を変え、人の心を動かす音楽だった。その技は名人と呼ばれる域に達している。
「きっと、元の持ち主も料理は苦手で音楽は得意だったのね。この手は借り物なのよ」
 ハノンがさらりと言うので、すぐには意味が飲みこめなかった。
「借り物?」
「そう。古い魔法だそうよ。私は、生まれたときから右腕がなかった。産婆をしてくれたまじない師が、迷子になっている手を拾ってつけてくれたの。その手は、まるではじめから自分のものだったみたいに私の体にぴったり合った。でも、ときどきね」
 まるで血の通った生き物にするように、彼女は傍らに立てかけていたフィドルをそっと抱いた。
「疲れてもいないのに手が震える。私の心とは関係なしに、悲しくて仕方がないって、泣くの。そういうとき、やっぱりこの手は今も誰かのものなんだって思うわ。……ダルメイ」
 いつになく穏やかな声で、低く呼びかけられる。
「触ってみる?」
「いや、いいよ」
 即答した後、悲しげなハノンの眼差しを見てダルメイは後悔した。
「そうよね」
 気味悪がっているわけではないと伝えるにはもう遅かった。
 違う、君の手に触れるのが嫌なんじゃない。
 君に触れるのが恐いんだ。
 ハノン、と名前を呼ぼうとしたとたん、急に頭がぐらぐらしてきて、視界が歪んだ。
 酒が回って来たのだろうか。娘たちに妙なまじないでもかけられたか?
 背が伸びて声が変わったころから、そういう悪戯が多くなってきた。
 考えているうちに目眩がいっそうひどくなる。
 いつの間にか松明が消えていた。月もなかった。
 生ぬるい闇のなか、ハノンの腕におさまったフィドルが切なげにわななく。
 弦を押さえる左手と、弓を持つ左手。
 まるで涙をこらえているように歪曲する世界の中で、光を放つ唯一のもの。
 たまらず手を伸ばしたその瞬間、音楽が絶えた。

 伸ばした腕が彼女に届くことはなかった。
 朽ちてしまわぬよう、人の目に触れぬよう、大切に隠してきた記憶の糸は、暴力的なまでの強引さで断ち切られた。
 ダルメイは高所から宙に放り投げられるのを感じた。
 それから突然首を絞められたように息苦しくなる。
 空気はどこだ?
 何が起きたんだ?
 ……俺は死ぬのか?
 ダルメイは溺者のように手足をばたつかせ、叫んだ。
 床に倒れこんだ衝撃で我に返る。生きている。
「これくらいで死ぬものか。大げさだな」
 傍らには、白い髭を蓄えた長身の男が立っていた。
 その姿を目にしたとたん、頭の中の靄が一気に晴れた。
 ここは森の奥深く、空目指して高く聳え立つ塔。
 床に乱雑に置かれた黴まみれの書物も、悪臭を発する薬草の山も、不潔な獣骨も糞も、親しく懐かしい。
 我が住処、混沌と静寂の世界。
 数年前、ダルメイは魔法使いの弟子となったのだ。
 ようやく力を取り戻し始めた喉を奮い起こし、掠れた声で尋ねた。
「あれは……」
 ダルメイを床に放ったまま、森の主たる魔法使いはにやりと笑った。
「美しい娘じゃないか」
 頬がかっと熱くなる。
「ご趣味が悪い」
「わしとて見るつもりなどなかった。だが、よほど執心していたとみえる。丸見えだ」
 気だるげに身を起こし、ダルメイは積み上げた書物に腰掛けた。
「それが一体何だというんです?」
 この高名な魔法使いの弟子となってから、ダルメイはよく学び、よく仕え、時にはその知恵と業を盗み、たった数年で優れた魔法の使い手となっていた。自負もあり、また師が認めてくれているのも感じていた。
 だから、突然お前に最後の試練を与える、それにしくじったときには塔を降りてもらうと師から告げられたとき、ダルメイは驚き、失望した。
 学問に打ち込んだ歳月は師に及ばぬとしても、魔法使いとして、自分に欠けているものなどひとつもないはずだった。
「お前の奥底に沈み、お前を縛るものだ」
 ダルメイは苛立たしげに言い捨てた。
「ただの過去でしょう。すぐに忘れます」
「忘れるだけでは足りん」
「ならば封じればいい。私にはその力がある」
「それでは意味がない」
「私は故郷を捨てました。国を、血を、あらゆる縁を。それでも足りないと仰るのですか」
 よろめきながらダルメイは立ち上がった。
「まだ足りないと!」
 ハノンと最後に会った夏至から数か月後、まだ幼かった弟が死んだ。それから優れた武人であった長兄、その次は父、母。いずれも病だと言われていたが、本当は違うことを誰もが知っていた。次兄が王座についた翌日、ダルメイは王の館を去った。
 もう二度と人と交わって生きるつもりはなかった。
 人を愛することも、信じることもできない。
 毒を盛られているのではないかと人を疑い、裏切られたのではないかと人に怯える日々。思い返すだけで吐き気を催してくる。
 塔に満ちる孤独と静寂は心地よく、傷ついた心を癒してくれた。
 それなのに、師は彼を拒もうとする。
 ダルメイの心に絶望が広がった。
「至らないところがあったのならば、すぐに改めます。未熟を厭われるのならば、必死に勉強します。私の居場所はここにしかないのです」
 頭を下げて懇願する弟子に、魔法使いは片目をつぶった。
「思い違いをするな。才能があり、努力も怠らない。お前には見所がある。共に暮らすのも愉快だった」
「それなら、どうして」
「だからこそ試練を与えるのだ。己の心を殺すな。いつの日か仇を返されるぞ。それはもっとも強く忌まわしい魔法だ……」
 最後の言葉は聞こえなかった。見えざる手に捕まれて、体が再び宙に放り出される。師が偉大であることに疑う余地はないけれど、やり方が乱暴にすぎる。
 ダルメイは導かれるままに風に乗り、大地を駆けた。
 森を抜け、稜線を越えると河が見えた。その流れにしがみつくように、村があり、街があった。人の営みがあった。
 かつて背を向けたものにダルメイは目を凝らした。
 本当ははじめからわかっていたのだ。
 自分をだますことはできても、師をだますことなどできないのだと。
 求めてやまないものを、あの手を探した。
 人の息づかいがあるところ、あらゆるところを探して回った。
 たくさんの手が見えた。
 しかし、求めているものは見つからなかった。
 終わりのない放浪に疲れはじめたとき、懐かしい音が聞こえた。
 小村での歓待の宴だろうか。座の中心で、若い娘がフィドルを弾いている。
 演奏の途中で、彼女は手を止め顔を上げた。
 ダルメイには魔法がかかっていた。彼の姿が人間の目に見えるはずはなかった。
 だが、ハノンはフィドルを置き、腕を高く掲げた。無数の手から、ダルメイは迷わずその手を選んだ。
 右の左手と、左の左手を。
 その瞬間、背中に鋭い痛みが走った。師の杖が振り下ろされる様が見えたようだった。塔との繋がりが、魔法の絆が断ち切られたのだ。
「おかえりなさい」
 呆気にとられてぽかんとしている人々を後目に、ハノンはダルメイを抱きしめた。ダルメイは最初は臆病に、それから息が止まるくらい強く抱き返した。
 彼方の森から、呪詛であり祝福である声が聞こえた。
 さらば人の子よ。
 長い旅路のはじまりだ。
 その先には、多くの苦しみと喜びが待っている。

「呼ばれたわよ」
 母親に肩を揺さぶられて、映美ははじめて自分が寝ていたことに気がついた。
 未だ夢うつつという足取りで、いつもの処置室に向かう。
「こんにちは」
 引き戸を開けると、顔なじみの装具屋の田中が笑顔で出迎えてくれた。田中が病院に来るのは水曜と金曜日。数ヶ月に一度、その日にあわせて診察の予約を入れている。
 田中は映美の左側に座り、じっくりと義手の具合を点検した。
「調子はどう?」
「まあまあです」
「痛むところは」
「ないです」
「もうすぐ十五歳だっけ」
「はい」
「ピアノ、今どんな曲弾いてるの?」
 次に口を開くまでの数秒の間に、素早く考えを巡らせる。
 ピアノの話を振ったのは社交辞令のひとつで、それほど興味はなさそうだ。とりあえず、有名な作曲家の有名な曲を答えておいた。
「すごいね。じゃあ、ここ動かしてみてくれる? うん、そう。問題ないみたいだね」
 ちょっと大げさに誉めてから、すぐに仕事の口調に戻った。やっぱり社交辞令だったみたいだ。真面目に答えなくてよかったとほっとする。
 映美が指を曲げたり開いたりするところを、母が感心したように眺めている。
「わたしが子供のころは、こんな精巧な義手はなかったですよ。もっと機械みたいで……」
「ここ数十年で一気に技術が進みましたから」
「まさか、ピアノまで弾けるようになるなんてね」
 母は嬉しげに目を細めた。
 小さい頃にかかった病気が原因で、映美の左手はなくなってしまった。でも、今の義手はよくできていて、人間の手そっくりだ。自分から教えでもしなければ、まず義手だと気づく人はいない。道具を使ったり握手をしたりと、人間の手ができることは大抵問題なくできる。温度も感触も伝わってくる。もちろんピアノを弾くことも。
 同級生はみんな知っているけど、学校生活で困ることもいじめられることもなかった。病気が完治した今となっては、たまに病院に通っているごく普通の中学生だ。ドラマチックな要素は何ひとつない。
 総合病院に行った帰りは、駅に向かう途中にあるファミリーレストランに寄るのが定番のコースだ。
 映美はハンバーグセットと苺のパフェを注文した。甘いものは好きではないのに、通院のあとは無性に甘ったるいものが食べたくなる。
 診察室やらレントゲン室やらたらい回しにされて、やっぱり疲れているんだろうか?
「ビールでも飲もうかな」
 食事を終えたあと、母がメニューを開いて呟いた。
「仕事は?」
「朝言ったじゃない、一日休み取ったって。人の話聞いてないね」
「さぼり?」
「失礼ね。銀行にも用事があるの」
「じゃ、やめといたら」
 名残惜しそうメニューを元に戻す。
「あんたも休めばいいのに」
「午後英語の小テストあるし」
「真面目だねえ」
「受験生でしょ」
「そうね」
 ふと会話が途切れた。
「ごめん、ちょっとお手洗い行ってくる」
 そう言い残して、足早に店の奥に消えてしまった。
「お待たせいたしました」
 そのとき、ちょうど入れ違いに苺パフェが運ばれてきた。
 私、甘いの苦手なのに何でこんなの頼んじゃったんだろう?
 毎度の後悔が押し寄せてくるが、注文しているのに全く手をつけないのも失礼だと思い、長いスプーンをアイスとクリームの層に突っこむ。それから口に押しこむ。
 わかりきっていたことだけど、冷たい。すごく甘い。
 その作業を黙々と繰り返しているうちに、忘れかけていた嫌な思い出が次々に浮かび上がってきた。
「ロボットの手なんだから、プログラミングとかすれば、うまくピアノ弾けるんでしょ? プロみたいにさ」
 特に親しくもない同級生から言われたことがある。
 でも、ピアノは手の筋肉だけで弾くものじゃない。
 自分の持つイメージを人に伝えるには、勉強して、自分なりの解釈を固めて、何よりたくさん練習しなければいけない。
 それは義手でも同じ。だから映美は誰よりも練習してきた。
 なのに、コンクールに出ることはできない。
 毎年、コンクールの出場規定を確認するたびに思い知らされる。病院に行くたびに思い出させられる。見て見ぬ振りをしてきたものが、わっと押し寄せてくる。
 私には、人間の手そっくりだけど、人間の手とは違うものがくっついている。
 パフェの中身をぐるぐるとかき回した。溶けかけたバニラアイスが、真っ赤な苺ソースと混ざりあう。
 今泣いたら、きっと自分の目から溢れてくるものは涙じゃない。どろどろで、べたべたで、こんな血みたいな色をしている。
 悲しい、という言葉ではきれいすぎる。もっと暴力的だ。泣きわめいて、声が枯れるまで叫んで、わめいて、走り回りたくなる。もういやだ、こんなものいらないと、むしりとりたくなる。
 映美はぶちんと糸が切れたようにテーブルにつっぷした。
 そのとき、手を握られた気がした。映美はびっくりして起きあがった。
「お母さん?」
 母親はまだ席に戻ってはいなかった。店員はキッチンの前で忙しそうにしていて、近くの席の客たちはそれぞれ自分たちの時間を過ごしている。
 けれど、確かに誰かが触れたのだ。その証拠に、人工の肌にまだ感触が残っている。なぜだか、波立っていた心は落ち着いていた。
 映美は不思議そうに掌を見つめた。母から声をかけられるまで、いつまでもいつまでも見つめ続けていた。