C09 プディヤの祈りは銀の蝶になって

 心を澄ませて己の内側を見つめれば、一本の銀蝶樹ぎんちょうじゅの木が見えてくる。それは、現し世と祖霊たちの世界を繋ぐ、聖なる樹木。その根を伝って一族の記憶の地層深く降りてゆけば、なつかしい薄闇の底、呪力の輝きを湛えた命の泉にたどりつく。泉のほとりに群れ集う無数の銀の蝶たちは、祖先たちの魂であり、呪力の運び手であり、象られた祈りだ。
 己の裡なる泉のほとりに、プディヤはひとり、座っている。まだ幼いその手に、刺繍針を持って。
 プディヤの小さな手が闇に閃けば、五色の糸が軽やかに中空を飛び交い、刻々と位置を変え、ときに弛み、ときに張りつめ、せわしなく絡みあってはまた離れ、複雑な幾何学文様を描き出してゆく。水辺から飛び立った蝶たちが中空の糸に戯れかかり、まとわりついて、鱗粉を浴びた糸は、銀の輝きを帯びてゆく。うつつの目には見えないその輝きは、祖先たちの守護の証。神聖な呪力を込めたその糸で布の上に描き出される吉祥文様が、狩りや戦に赴く大切な男の身を護るのだ。
 ――ユウアムにいさま……。
 プディヤは、美々しい戦装束をまとった従兄あにの晴れ姿を、うっとりと思い描いた。
 弓のようにしなやかな長身、曇りなく明るい眸、日に焼けた肌に皓い歯が映える闊達な笑顔――ああ、まるで神話の中の英雄のよう! そう、私の兄さまは、誰よりも立派な勇士。きっと何羽もの炎龍鳥えんりゅうちょうを狩ってくる……。

 高峰に棲む炎龍鳥は、広げた翼の端から端が人の背丈を優に超える巨大で凶暴な鳥だ。しばしば家畜を攫い、ときに人も襲う。その炎龍鳥に、彼は明日、単身で立ち向かう。ただひとりの女のために。〈西の大屋根おおやね〉の、美しいパドゥハのために――

「……っ!」
 指先にちくりと痛みを感じて、プディヤは息をのんだ。
 温かな闇も群れ飛ぶ蝶も、中空で燐光を放つ描きかけの文様も瞬時に掻き消え、プディヤは、晩春の斜陽が淡く射し込む自分の小房こべやの、窓辺の椅子に座っているのだった。膝の上に広げた藍染の上衣には、先祖の加護を表す吉祥文様が隙間なくびっしりと刺繍されて、最後の一画を残すのみとなっている。完成を目前にしてほんの一瞬心に生じたかすかな乱れがプディヤの手元を狂わせ、滑った針が指先を刺したのだ。
 細い指の先に、小さな赤い玉が、たちまちぷっくりと盛り上がる。
 ――兄さまの晴れ着を汚してはいけない。
 プディヤは慌てて指先を口に含んだ。
 このきらびやかな戦装束は、敬愛する従兄の婚礼衣装でもあるのだ。
 炎龍鳥狩りは、結婚適齢期を迎えた青年たちの通過儀礼であり、求婚の儀式の一部である。炎龍鳥を単独で狩ってきてはじめて、意中の娘に正式に求婚する資格を認められるのだ。危険な儀式に挑む青年たちの無事を祈って、〈糸の姉妹〉と呼ばれる血縁の娘たちは、その血筋の呪力を刺繍に込めた新しい上衣を贈る。一枚の衣をみなで分担して、一面に精緻な刺繍を施すのだ。この、刺し手の仕事に、プディヤは今回、初めて加えてもらった。本来ならまだ少し早いけれど、ユウアムはプディヤを幼いころから特に可愛がり、プディヤも彼に特に懐いていたから、その糸にはきっと強い力が宿るだろう――という理由で。
 だからプディヤは張り切って、ひと刺しひと刺し心をこめて針を進めてきたのだ。それなのに――
 プディヤは悄然とうつむいて、ちいさな赤い唇で指先の血玉を吸う。
 ふと、まだ刺繍を習いはじめたばかりの幼いころ、やはりこんなふうに指に針を刺したときのことを思い出した。そのとき、たまたま居合わせたユウアムが「どれ」と手を取って、プディヤの指を口に含んでくれたのだ。
 頬が、かっと熱くなるのがわかった。
 かすかに血の味がした。
 ――この血で、私と兄さまは繋がっている――
 神聖な血縁の絆が、ふいに呪いのように思えた。

 炎龍鳥狩りの儀式を終えたら、ユウアムは、〈西の大屋根〉のパドゥハのものになる。自ら狩った炎龍鳥の羽根をパドゥハに贈って、堂々とその愛を求める。炎の色のその羽根が、パドゥハの婚礼衣装を飾る。パドゥハはユウアムと同い年で、とても綺麗だ。背の高さもユウアムとよく釣り合って、並んで立つと、まるで絵のよう。パドゥハのことも、プディヤは好きだ。パドゥハの属する〈西の大屋根〉はプディヤの属する〈北の大屋根〉のすぐ隣で、優しいパドゥハは小さなプディヤをよく可愛がってくれていたのだ。大好きな従兄が遠くの村にではなく近くの〈大屋根〉に婿入りするのは、プディヤにとっても幸運なことだ。山間の谷にへばりつく狭い村で、プディヤはこれからも、きっと、朝な夕なに彼と行きあうだろう。たとえば畑への行き帰りに、たとえば広場での集まりで、美しいパドゥハと笑い合う彼の姿を見るだろう――

 プディヤは我知らず唇を噛んで、膝の上の布に目を落とした。
 ほんの少し針目が乱れたのは、ちょうど上から別の色の糸を重ねることで隠れてしまう箇所で、そのまま続けても見た目上の出来上がりは変わらないはずだ。そして、もしもその場所の護りの呪力がほんの少しだけ手薄になっているとしても、そこはたとえば心臓の上などの重要な箇所ではなく、ほんの隅の方の一画で、だからこそ子どものプディヤに任されたのだ。それに、従兄は本物の戦に征くわけではなく、村の男の誰もが経験するお決まりの儀式に臨むだけだ。プディヤのささやかな手抜きが彼の命に関わることなど、ないはずだ。ただ、これを刺したときに、彼の無事と幸せを祈る自分の心が一瞬揺れ、呪力の流れが途絶えたのを自分だけが知っている――それだけのこと。

 ――でも、だからどうだというの。兄さまはパドゥハとの幸せを手に入れるのだもの、それで充分ではなくて?

 プディヤは唇を固く引き結んで、ふたたび針を取った。わずかな針目の乱れをそのままに、上から覆いかぶせるように続きを刺してゆく。
 刺し終えた箇所をじっと見つめて、プディヤは針を置いた。


 その夜、プディヤは眠れずに窓の外を見ていた。山の端に潤んだ月がかかる、明るい夜だった。この季節、氏族の聖木である銀蝶樹が村中のそこここで蝶の形の白い花を咲き誇らせ、月光の下、その名のとおり銀の蝶をびっしりと止まらせているかのように淡く明るんでいる。その甘い芳香が、微かな風に乗ってふわりと鼻に届いたが、プディヤの心は慰まなかった。
 従兄の衣は、〈大屋根〉の当主である祖母の検分を経て、餞の贈り物の数々とともに、すでに彼のもとに届けられているはずだ。それを着て、従兄は明日、あの山へ行く。
 月明かりに浮かぶ山並みを見上げ、プディヤは、峰に棲む炎龍鳥の、鋭い鋸歯がずらりと並ぶ嘴や、硬い鱗に覆われた太い脚の先の巨大な鉤爪を思い浮かべた。
 炎龍鳥狩りは、儀式とはいえ危険な狩りであることに変わりはなく、まれには失敗したり、大きな怪我をするものもいる。炎龍鳥自体が危険なだけでなく、その住処が険しい峰の断崖絶壁の上にあることが多いため、足を滑らせて転落することもあるのだ。過去には、そのときの怪我がもとで不自由な身体となり、そのまま生家の若者部屋に留まって一生を終えた男もいると聞く。
 ――もしそうなれば、兄さまはずっとここにいてくれる――!
 一瞬、そんな希望が胸に閃いたが、すぐに弾けて消えた。
 ――でも、そうしたら兄さまは、パドゥハと夫婦めおとになれないのだ。どんなに辛いことだろう。ふたりはあんなに想い合っているのに。それに、もしもこの狩りで、兄さまが、失敗したり怪我をするだけでなく、命を落としてしまったら……?
 足場の悪い狭い岩棚で巨大な鳥と対峙する従兄の姿が、プディヤの脳裏に浮かぶ。弓矢を構えた彼に、覆いかぶさるように翼を広げて襲いかかる巨鳥。その鉤爪が、彼の衣の中で呪力の守護が不完全なただ一箇所をたまたま正確に貫いて肌を切り裂き、鮮血が飛び散る。思わずひるんで体勢を崩したユウアムの身体は人形のように宙に投げ出され、断崖をまっさかさまに落ちてゆく――
 プディヤは口に手を当て、悲鳴をのみこんだ。小さな胸が激しく脈打つ。
 ――ユウアム兄さま!
 プディヤは手燭を掴んでへやを飛び出した。

 幾つもの棟が軒を重なり合わせるように寄りそって形作る〈大屋根〉の、迷路のように接続された渡り廊下を足早に幾度も曲がり、木製の梯子段を昇り降りして、独身の若者たちが暮らす大部屋にプディヤはたどりつく。灯火をかざして見渡す室内にユウアムの姿はなく、健やかな寝息をたてる若者たちの間でひとりだけ身を起こし窓の月明かりを頼りに山刀の手入れをしていた男が顔を上げ、皓い歯を見せて破顔した。
「やあ、ちび姫さん。こんな時間にどうしたんだい?」
「ノイ兄さま。ユウアム兄さまは?」
「ああ。もう廟に行ったよ」
 炎龍鳥狩りに臨む若者は、前夜、戦装束を整えて〈大屋根〉の裏手にある先祖の廟にひとりで詣でるのだ。その前にと急いだが、間に合わなかったらしい。
 プディヤは急いで礼を言って引き返すと、戸口を走り出て、夜の奥庭を突っ切る。下界では夏も近い季節だが、高地の村の夜風は冷たい。手燭の柄を握りしめるプディヤの細い指先は心もとなく冷えてゆく。
 先祖の廟は奥庭のさらに奥、山へと続く登り斜面に広がる、花盛りの銀蝶樹の森にある。一面に散り敷く白い花を小さな沓で無造作に踏みつけて小径を急げば、蝶が舞うように降りしきる落花の向こう、廟の前に立つ後ろ姿が振り向いた。
「兄さま!」
 まろぶように駆け寄るプディヤに、真新しい戦装束を纏ったユウアムは目を丸くした。
「プディヤ?」
「兄さま、お願い。その刺繍を、やりなおさせて!」
「……今、ここでかい?」
 ユウアムはあっけにとられてプディヤを見下ろす。
「そう。ここがいいの」
 この場所にみなぎる銀色の力の輝きを、プディヤは感じていた。

 重たげな花房を揺らすひときわ大きな銀蝶樹の根方の岩に腰を下ろして、プディヤは、従兄の体温の残る上衣を左手に、帯に手挟んでいた小さな鋏を右手に、刺繍を解き始めた。冷えた指に息を吹きかけて温め、月明かりと傍らに置いた灯火を頼りに、丁寧に、慎重に。
 そうして現れた、乱れた糸。鋏の刃を寝かして注意深く糸と布の隙間に差し込み、ふつりと糸を切る。プディヤの中の小さな寂しさや悲しみがそっと解けて、月明かりに溶けてゆく。
 刺し損じを解き終えると、針に糸を通し、プディヤはひととき瞼を閉じた。影の世界に心の目を開き、傍らの銀蝶樹の中を流れる水に意識を添わせる。幹を駆け上り、枝葉をめぐり、花になって揺れ、ふたたび幹の中を駆け下って、根を伝い、地の底深く降りてゆく。そうしてたどりついた根の国の、未だ形にならぬ命の力に満ちた温かな薄闇の中、プディヤの魂は、泉のほとりで針を取る。愛しい従兄のために。
 ――幼いころ、背中におぶってくれた兄さま。膝に乗せて遊んでくれた兄さま。肩車してくれた兄さま。木の葉で水車を作ってくれた、草相撲をしてくれた、草笛の吹き方を教えてくれた、花を摘んでくれた、大好きな大好きな、優しい兄さま――
 幼い思慕のすべてを込めて、プディヤの手は、銀の光を帯びた吉祥文様を描き出してゆく。今度は途中で心を乱したりはしない。ただ一心に従兄の幸せを祈り、祖先の加護を願って。
 最後の一刺しを終えて結び目を作り、糸を切り、静かに針を置けば、藍染の布の上、従兄の身を護る刺繍が、今度こそ一分の乱れもなく完成している。プディヤは立ち上がり、傍らに立って見守っていたユウアムに衣を差し出した。
「兄さま。ごめんなさい。少しだけ、ちゃんとできていないところがあったから、やり直したかったの」
「わざわざありがとう」ユウアムは衣を受け取りながら微笑んだ。「でも、あのままでも充分上手にできていたよ」
「ううん。……私、失敗したところをわざとそのままにしてたの」
 ユウアムは不思議そうに眉をひそめて問う。
「なぜ?」
「だって、炎龍鳥を仕留めたら、兄さまはお婿に行ってしまうもの」
「なんだ」と、ユウアムは笑った。「大丈夫だよ。〈西の大屋根〉はすぐ近くだ。いつでも会えるさ。ここにもしょっちゅう顔を出すよ」
「……でも。それじゃだめだったの。だってそのとき兄さまは、もう、パドゥハの婿さまだもの!」
 言うつもりのなかった言葉を今さらうっかり口にしてしまったプディヤは、口もとをおさえてうなだれた。
「ごめんなさい……」
 プディヤは己の甘えを慚じて唇を噛んだ。細いうなじを黒髪が滑り落ち、うつむくプディヤの横顔を隠す。朱に染まった耳朶に気づかれぬよう、プディヤは願った。
 しばらくめんくらったように黙っていたユウアムは、やがて優しく訊ねた。
「プディヤ。君は幾つになった?」
「九つよ、兄さま」
 そう答えてから、あとほんのひと月たてばもうひとつ多い歳を言えるのに……という詮無い気持ちが、やむにやまれず口を衝いた。
「もうすぐ十になるわ」
「そうか……。いつまでも僕のちびちゃんだとばかり思っていたけど、いつのまにか大きくなっていたんだね」
 ユウアムは微笑んで身をかがめ、プディヤと視線を合わせた。
「ねえプディヤ。パドゥハの婿になっても僕は君の〈糸の兄〉だし、君が僕の大切な〈糸の妹〉であることは一生変わらないよ。君が糸に込めてくれた想いは、この先、一生涯、僕を護ってくれるだろう」
 ユウアムはつと手を伸ばし、プディヤの右手を指先で取ると、片膝をついた。花の天蓋の下、恭しく押し頂いたプディヤの手に軽く額をつけてから、深く一礼し、立ち上がる。それは〈大屋根〉の当主への正式な礼。
 驚いて見上げるプディヤに、ユウアムは、
「君はここのお姫さまだからね」と笑った。
 そう、プディヤはいずれ、祖母と母の後を継いで、あまたの家族が寄り添って住まうこの〈大屋根〉の当主になるのだ。他の〈大屋根〉から有能な若者を婿に迎えて、その補佐のもと〈大屋根〉全体を支え、切り盛りし、一族の暮らしを護る――それがプディヤの定め。
 ユウアムの指先が触れた右手を、プディヤは無意識のうちに左手で覆って胸元に押し当てた。
「プディヤ。立派な当主になって、みんなを護っておくれ。それまでは、ばばさまや母さまをよく助けるんだよ」
 ユウアムは、少しおどけて付け加えた。
「あと、もう刺し損じたりしないように、刺繍の腕も磨くんだよ」
 ――兄さまは、ただの刺し損じということにしてくれるのだ。ならば自分もそういうことにしよう――
 むせかえる芳香の中、プディヤは顔を上げて背筋を伸ばし、まっすぐにユウアムを見つめた。
「はい。兄さま……ご武運を」
 ――私の糸が、炎龍鳥から、そしてあらゆる悪しきものから、兄さまを、兄さまとパドゥハの幸せを護ってくれますように。私と兄さまの〈糸の兄妹〉の絆が、生涯、兄さまの助けになりますように――
 祈るプディヤの髪に、肩に、白い花が静かに零れ、プディヤの祈りは見えない銀の蝶になって、月の光に輝きながら、ただひとすじにユウアムへとはばたいていった。