D02 神の庭

どうぞ握った手を離さないで。
私は私のために、あなたを愛すると決めたのだから。

吹きつける風は、潮の香がした。
海からは遠く離れた荒野。忘れられかけた街道を行くリュミエレは、馬上で顔を上げる。
何かを探すような彼女の視線に、同行者である男が声をかけた。
「どうした? 何かあったか?」
「海の匂いがしたから。気のせい?」
虚空を探してさまよう女の瞳は、薄い朱色だ。同じ色の長い髪が風に煽られ広がる。
年のほどは二十を越えていないだろう。溜息を禁じえない整った顔立ちは、神に祝福されたと言ってもいい美しさだ。砂塵除けの外套を羽織った体はほっそりとして、とても辺境を旅する体力があるようには見えない。どこかの屋敷の奥深くで、大切に隠されている方がずっと似合うだろう。
だが彼女がそんな人間でないことは、同行者である男がよく知っていた。
リュミエレと同じなめし革の外套に、大剣を提げた彼、ディノ・ハルトは短く答える。
「あの山の向こうに塩の湖がある。そのせいだ」
「そんなものがあるの?」
彼女の声には好奇心が滲んでいる。もし「見てみたい」と言われたらどうしようか、ディノは悩んだ。
だがすぐにリュミエレは、淡く微笑む。
「不思議なものね。私の知らないことばかり」
彼女は半ば無意識に、首から提げた小さな水晶の笛を弄る。
そうして世界を見る眼差しは憧れを多分に含んだもので、ディノの胸はちくりと痛んだ。外の世界を知らない彼女を、己が復讐の道に連れ添う罪を思う。
そんな思いが伝わったわけではないだろうが、リュミエレは目に見えぬものを探すように、なにもない荒野を見回した。
「あなたの国は? どこにあったの?」
「……ここから東だ。そう遠くない」

目を凝らせばまだ、燃え盛る都が見える気がする。
あの日、たった数匹の《神獣》によって滅んだ祖国。
本来は《神遺領域》を出ることがないあれらが、なぜ外に出て人の国を襲ったのか。
その答を探して、ディノは荒野に戻ってきたのだ。それは緩慢な自死と言ってもいいかもしれない。

彼はリュミエレを一瞥する。
「本当に君は、《神遺領域》の門を開けるのか?」
「開けるわ。だからここまで連れてきたんでしょう?」
何度目かもわからぬ問いに、リュミエレは少し呆れ顔だ。まだ信じていないのか、と言われているようで、ディノは口を噤む。
リュミエレは彼のそんな気まずそうな表情に、ふっと小さな唇を綻ばせた。


《神遺領域》――それは、人の立ち入れぬ神の庭だ。
神が去ったこの大地に今も残る、神の獣を入れた檻。
かつて人は、外からこの大地にやって来て、神々から土地を譲り受けた。
その際に神々は「人とは共に暮らせぬが、滅してしまうのは忍びない」と、いくつかの生き物をこの地に残したのだという。
それが《神遺領域》で暮らす《神獣》であり、彼らは不死と言える生を人とは関わらず暮らしている、はずだった。
ある日、領域から洩れ出た神獣の数匹が、ディノの国を滅ぼしてしまうまでは。


リュミエレは雲一つない空を見上げる。
「《神遺領域》が世界にいくつあるかは、諸説あると言われているでしょう?」
「十……か十一だったか。人には観測できないから確かなところはわからないな」
「十一が正解。だから神獣も全部で十一種。で、それら《神遺領域》は規模によって名称が違うの。《神遺園》《神遺湖》《神遺都市》――」
女の透き通る声は、風に乗って遠くにまで響く。
まるで詩人が謳う御伽噺のようだ。ディノは初めて聞く話に眉を寄せた。
「大陸神殿にはそんな知識があるのか。世界一の蔵書数とは聞いていたが」
どこの国でもない、ただ知を継いでいくだけの場所。
リュミエレがいたのはその最奥だ。ディノが「誰でもいいから神獣に詳しい人間を教えてくれ」とあちこちに懇願して、ようやく秘密裡に教えられた存在だ。
巫女であるのか学者であるのかはわからない。
ただ彼女は「なぜ祖国が滅んだのか知りたい」と願う彼に対し、三つの条件付きでそれを叶えると言った。

一つは、《神遺領域》からはぐれ出た神獣に打ち勝つこと。
もう一つは、自分に外の世界を見せること。
そして最後の一つは――

リュミエレは、感心する彼に微笑む。
「大陸神殿にいる全員が知っているわけではないけれど。私は知ってるの。《神遺領域》もたまに綻びるから。誰かが後始末をしなければ皆が困るでしょう?」
「今回は、俺がその後始末を?」
「そう」
彼女は辺りを見回す。
最寄りの町からずいぶん遠くにまで来た。人通りもない。「この街道を使った者は戻ってこない」という話が、近隣に広まりきったせいだろう。
リュミエレは馬を止めと、ディノを見上げる。
「この辺りがいいわ。いい?」
「充分だ」
ディノは馬から降りると、重い外套を脱ぎ捨てる。剣を抜く彼を見てリュミエレは頷いた。
彼女は水晶の笛に口を当てると、息を吹き込む。


高く、澄んだ音が聞こえた気がした。
けれどそれは気のせいだ。人の耳に、彼女の笛の音は聞こえない。
その音が聞こえるのは――神獣だけだ。


大きなはばたきが聞こえてくる。
地上に巨大な影が差す。
ディノはいつの間にか頭上を旋回するそれを見上げた。
鱗の生えた翼、長い尾。
彼の国を襲った神獣とは形が違う。だが同じ、神の領域にある生き物だ。鋸のような歯の端に、赤い布が引っかかっているのが見える。それがどこかの商隊の旗だとわかって、彼は眉を顰めた。
リュミエレの声が聞こえる。
「《神遺園》から漏れた神獣よ。尾の付け根を狙って」
「剣が届かない」
「すぐに降りてくるわ」
彼女の言う通り、神獣は二人の姿を認めると降下してくる。
鳥とも魚ともつかない姿、嘴のような口が開いてその奥に赤い舌が見えた。
二人をもろとも喰らおうと迫ってくる神獣に、ディノは両手で大剣を構える。


神の獣を前に、けれど畏れはない。
それは祖国が燃えたあの日、失ってしまった。
誰よりも自分が守るべきだった少女の手を、放してしまったその時に。


今でも耳に残る悲鳴。その残響を思い出し、ディノは歯軋りした。
そうして彼は宣言する。
「レカリス国将軍、ディノ・ハルト――推して参る」



激しい砂煙が上がる。
大剣の刃によって打ち上げられた顎が、大きく宙へとのけぞった。
そんな風にただの人間に反撃を食らったことなど一度もないのだろう。金属を擦るような叫びが響き渡る。
人一人をたやすく飲みこめるであろう巨体に、けれど男は怯みもしない。
愚直に、正面から挑んでいく。
それは失った祖国を捨てられない彼の生き方そのもののようだ。
リュミエレは不器用な男の背をじっと見つめる。
「忘れてしまえば楽になれるのに……」
それができないはずはない。現にディノは自分が少年だった頃、彼女と出会ったことを忘れてしまっているのだから。
――それとも、覚えていたなら彼は、はたしてリュミエレの手を取ってくれただろうか。


一際大きな砂煙が巻き上がる。
巨体が落ちる衝撃が、辺り一帯を揺るがした。
尾を斬り落とされ、動かなくなった神獣を、ディノは息を整えながら検分する。
「これは……死んだのか?」
「ええ。《神遺領域》を出た神獣は、不死の属性が失われるから。ちゃんと死んでる」
馬から降りて、リュミエレは彼の元に駆け寄る。
そのすぐ傍に横たわる神獣は、見る者が見れば宝石よりも価値がある代物だ。鱗も牙も、手に入れれば値千金になる。
だがそれは、人の手に渡していいものではない。

リュミエレは首に提げた笛を外すと、紐の先端を持って回し始めた。ヒュンヒュン、と風を切って音が鳴る。
それはなにもない宙に波紋を生み、広がっていく。
目に見えるほど明らかな変化はない。
だがほんの少し――陽炎のように辺りが歪んだ。
やがて砂混じりの荒野の只中に、ふっと小さな木造りの門が現れる。


それを見たディノが小さく息を飲んだ。
「あれは……」
「《神遺園》の門。最初からここにあるの。人の目に見えないだけで」
リュミエレの声に応えるように、白い手が向こうから門を押し開く。


――門の向こうは、荒野とはまるで違う。緑の楽園だ。
瑞々しい草木が生い茂り、無数の大樹が天にまで伸びている。その間を銀色の神獣が何体も泳いでいるのを見て、ディノは思わず身を強張らせた。

そんな彼の反応を見て、門の向こうに立つ女は微笑む。
「ご心配なく。領域の中にいる神獣は、わたしの管理下にありますから」
長い緑の髪に同じ色の瞳、人形のような美貌の女だ。
当然のように神域に立つ彼女に、ディノは不審の目を向けた。
「あなたは……?」
「――《形骸姫》」
答えたのはリュミエレだ。彼女は笛を元通り首にかけながら説明する。
「《神遺領域》の管理者。一つの領域に一人いるの。人の形を模してるけど人じゃない。神との契約によって、領域に閉じこめられてる」
リュミエレはそう言うと、女に向かって神獣の死体を指し示す。
「これでいい?」
「はい。この度はお手数をおかけしました。人のご助力に感謝を」
形骸姫は死体に向かって白い手をかざす。
直後、神獣の巨体は色のない砂塵に変じると、またたく間に門の中に吸いこまれていった。
まるで初めからなにもなかったかのような有様に、ディノは唖然とする。
「これは……」
「言ったでしょう? 『はぐれた神獣を狩って』って」


リュミエレが出した条件の一つ。
それが、領域から漏れ出した神獣を狩ることだ。
神々が去った後、人と神獣の生きる場所は分かたれた。それが交じり合うことがあってはならない。
だからその領域を越えたものは……狩られねばならないのだ。


形骸姫は、二人に向かい深々と頭を下げる。
「此度の失態、大変にご迷惑をおかけしました。どうやら他の神獣に通りすがりに穴を開けられてしまったようで……すぐに塞いだつもりでしたが、一体外に出てしまいました」
「っ、それは――」
今の神獣は、ディノの国を滅ぼしたものとは種類が違った。
だが他の神獣がこの領域を通り過ぎて行ったというなら、それこそが国の仇ではないのか。
詳しいことを問おうとするディノを、けれどリュミエレは手を上げて遮る。彼女は緑の形骸姫に言った。
「もう閉じて、行きなさい。他の誰かに見つかる前に」

《神遺領域》に立ち入れる人間はいない。
そこはあくまで、人の触れざる神域なのだ。忘れ去られた生き物たちが暮らす場所。形骸の姫が守る、不死の庭。

明確な境界線を引くリュミエレの言葉に、ディノはそれ以上を飲みこむ。
形骸姫はもう一度頭を下げた。
「どうぞ、ご武運を。あなた様に二度とお目にかからずに済みますように」
木の門が、ゆっくりと閉まっていく。
それに呼応するように、緑の景色も見る間に薄らぐ。幻が掻き消えるように領域は消え失せ、後には同じ荒野だけが広がった。
なにもない枯れた景色を見つめて、リュミエレは言う。
「……そんなの、わかってる」
その声音はまるで、冷えて傷ついているように、ディノには聞こえた。




荒野を行く旅路は、かつては孤独なものだった。
祖国が焼け落ちて一人、失意を抱えて歩いた道。
だが今は彼女と二人だ。門が消えてからずっと無言でいたリュミエレは、ようやく馬上で口を開く。
「ごめんなさい」
「なにが?」
「あなたはもっと話を聞きたかったのだろうと思って」
祖国が滅んだ原因を探して、彼は旅をしている。けれどようやく得られた手がかりを遮ったことで、ディノが気分を害したと思ったのだろう。
薄い肩を落とすリュミエレに、彼はかぶりを振った。
「別にいい。その分、君が教えてくれるのだろう?」
「……ディノ」
「だから、平気だ」

彼女は、三つの条件つきで約束を叶えると言ったのだ。
一つははぐれた神獣を狩ること。一つは彼女に外の世界を見せること。
そして最後の一つは――

「愛してる」
女の囁く声。彼女の出した条件の最後がそれだ。「自分に、無条件に愛されて欲しい」と。
愛情を返す必要はない。ただ愛されて、とリュミエレは懇願した。
なぜ彼女がそんなことを願うかはわからない。ただ少しだけ感じたのだ。――彼女は人との繋がりに飢えているのではないかと。
だからディノはその条件を飲んだ。
そしてそうである限り、リュミエレはいつか、彼に答をくれるのだろう。
大陸神殿の最奥に棲む女は、涙の滲む目を手の甲で擦る。
「ディノ、もし私が形骸姫だとしても、あなたを愛していていいかしら」
「形骸姫なら領域を出られないのだろう?」
当たり前のことを返して、けれどすぐにディノは、それが彼女の求めている答ではないと気づいた。あわてて言いなおす。
「君がなにであっても。構わない」
知りたいのは、彼女の真実ではない。別の真実だ。
だから不安に嘆かなくてもいい。彼女との約束を必ず自分は守るのだから。

「ディノ」
リュミエレは白い手を伸ばす。
その手を、彼は取る。あの日、大陸神殿でそうして彼女を連れ出したように。あるいはもっと昔、まるで無知だった少年の時のように。
握り返される手に、彼女は微笑む。
その笑顔は夕陽に照らされて、ただの少女のように美しかった。