D03 couturiere

couturiere


 淡い月光が暗い闇を薄く溶いて、窓の向こうは藍に染まっていた。
 ガラス越しの闇に視線を泳がせて休めていた眼を室内へ戻す。
 ゆっくりと伸びをしながら窓辺を離れ、入り口の脇のスイッチに手を伸ばす。消していた部屋の明かりをつけ、眼を白い空間に慣らしてから、私は椅子に腰を下ろした。
 作業台に広がった白い海に片手を沈める。
 指先が拾い上げた絹のドレスに、ピンクッションから抜き取った針を慎重に刺した。
 明日、お客さまが商品を受け取りにくるまでに、このウェディングドレスを仕上げなければならない。
 もう眼が疲れたなどといって休憩を入れるのは無理だろう。だからと、最後の仕上げを雑に扱っては、職人を自負する私のプライドが許さない。
 何としても、お客さまが納得するドレスを作り上げてみせる。
【couturiere ami】のような小さいサロンでは、客の評判が第一だ。
 納期遅れなんて、論外だ。たとえ、原因がお客さまの方にあったとしても。
 二ヶ月前の注文の際に、新婦は自分が妊婦であることを報告してくれなかった。
 結婚式の計画を前に舞い上がっていたのか、この二ヶ月で自分の体型がそれほど変わるとは思っていなかったのか。
 最終フィッティングでサロンを訪れたお客さまの僅かながらに膨らんだ――サイズを測ったときから確実に変化した腹部を見たときは、目の前が暗くなり気を失いかけた。
 何故なら、注文のドレスは躰のラインに添う、マーメイドドレスだったから。
 余裕などどこにもない、むしろコルセットで体型を補正しなければならないウェストは、お客さまの膨らんだお腹では、入るはずがない。
 よって式を一週間後に控え、大幅なデザインの変更を余儀なくされた。
 二ヶ月かけて作ったドレスを、今度は一週間で仕上げなければならないとなれば、睡眠時間は削られる。そして今夜の徹夜作業だ。
 前に勤めていたアトリエでは、ファッションショウの三日前にデザイナーが「神が降りてきた」とふざけたことを言って、凝りに凝ったドレスのデッサン画を送りつけてきたこともある。
 実際に物を作る人間でないと、そこに掛かる手間や時間を正確に把握してくれないのが、辛いところだ。
 デザイナーも今回の新婦も、注文すれば、魔法のようにドレスが出来上がると思っているに違いない。
 あのときだって、アトリエのスタッフ総勢で残業して、ヨロヨロになりながら作り上げた。
 でも現在、このサロンには私一人しかいない。
【couturiere ami 】は、私がアトリエから独立開業して一年にも満たない、オートクチュールの店だ。
 誰もが知る有名ブランドのアトリエで、裁縫師をしていたという肩書きがあっても、既製服が主流の御時世に、新規の店に顧客がつくには時間が掛かるだろうと、わかっていた。
 評判を集め、頻繁に注文が入るようになるまで、私一人で頑張るしかない。
 新しいドレスは柔らかい生地でギャザーを寄せてふんわりと膨らませる仕様にした。そして、幅広の生地でドレープを作った大きな飾りリボンを腰に巻き付ける。
 これで妊娠の兆候が見られる腹部は誤魔化せるはずだ。
 妊娠が知られてばつが悪いという訳でもなさそうな顔つきの新婦だったから、誤魔化す必要があるのかは謎だったが、記念写真にはその辺りを隠したいという要望だった。
 そんなこんなで、スカート生地は倍以上に必要だったし、それにより裾の処理に手間取った。
 前払いで気前よく払ってくれた客でなければ、途中で投げ出していたかもしれない。そんな度胸はないけれど。
 幸いに新婦の親は、変更による追加の手間賃も払ってくれた。貰う物を貰った以上は、職人として最後の最後まで手を抜けない。
 だから飾りリボンにばかり目を向けさせてはいけない。招待客の視線を上げるために、胸元には淡い色のリボンで巻き薔薇を作って、縫い付けた。
 パールビーズもあしらって、イメージは朝露に煌めく瑞々しい花園だ。
 花園に咲く薔薇は、それこそ群れをなすほどがいい。
 ポツンと咲く花は、鉢植えの花でしかない。それは寂しすぎるだろう。
 結婚という祝福の舞台には、やはりこれでもかというくらいに、賑やかしくしよう。
 そう、生まれてくる子供が元気な産声を上げるようにと、願いを込めて。
 ひと針、ひと針、慎重に指を運ぶ。うっかり針を指に刺してしまわないように。
 長年、針で縫い物をしてきた職人なら、針を刺すなんて失敗はしないだろうと思われているが、そんなことはない。
 前に勤めていたアトリエでは、針で刺した指が右手なら仕事、左手なら心の未来が占われると言われていた。
 刺した指が親指なら喜ぶべきことが。人差し指ならトラブル。中指は愛、薬指は手紙、小指は出発。
 他にも様々な迷信があった。
 トワレがハンガーから落ちたら、その商品は評判になる。巻き尺に結び目ができれば、仕事が増える。
 針箱が落ちれば口論に。そんなときは、肩越しに針を七本投げて、災難除けのおまじないだ。
 それら迷信の中で一番怖かったのは、鋏を落とすこと。人が死ぬと言われていた。
 冗談だと思ったが、実際に転落死した裁縫師がいたらしい。
 彼女は死の数日前、鋏を落としていた。
 その話を聞いたとき、背筋に悪寒を覚えた私は、迷信を信じる質なのだろう。
 アトリエを辞めて、この小さなサロンを開店させたのは、右手の小指を針で刺したからだ。
 馬鹿馬鹿しいと、きっと誰もが笑うだろう。でも、きっかけが欲しい人間にとっては、占いや迷信は背中を押してくれる。
 それは良い方にも、悪い方にも。
 転落死した彼女は、ブランドの看板デザイナーに恋慕していたという話だった。
 幼馴染みだった二人は共に就職し、それぞれの道でぐんぐんと成長していった。
 特に彼がデザインするドレスは、ファッション業界で評判になり、顧客には有名人が名を連ねるようになった。
 ブランド名が確固たる地位を築き始めたのはその時期だ。
 だけど、デザイナーと違い、裁縫師はいわば影の職人だ。
 ブランドの商品が評判になっても、それはデザイナーの功績とされる。
 デザイナーが描いたデッサンを元に、ドレスを立体的に作り上げるのは、裁縫師の手によるものなのに。
 もちろん、どんなに技術に優れた裁縫師であっても、デザインセンスがなければ、美しいドレスは作れない。そんなことはわかっている。
 でも、わかっていたことも、ある日、何もわからなくなってしまうことがある。
 何のために、ドレスを作るのか。誰のためにドレスを縫うのか。
 当たり前に呼吸していた筈なのに、突然、息継ぎがうまくできなくなったことは、私にも経験があった。
 故に私もまた、迷信を語り継ぐ裁縫師たちと同様に、想像する。
 鋏を落としたときに、彼女の中で何かが砕けたのかもしれない。もう何も望めなくなったのかもしれない、と。
 忙殺され思考すら回らなくなる日々に、脆くなっていた心は、床に落ちた鋏に自分の姿を重ねてしまったのではないだろうか、と。
 華やかな社交界に引っ張り出される彼は、女優やモデルたちと浮き名を流すようになった。そんな彼と、裏方仕事の道具でしかない自らの距離に絶望して、彼女は屋上から身を投げたらしい。
 未来を願うことすら、麻痺してしまった思考では難しかったのかもしれない。
 きっかけを前に、人はたやすく絶望する。だけど同じくらい簡単に、輝かしい未来を願うこともできるだろう。
 花嫁が美しいドレスに、永遠の幸せを夢見るように。
 だから、私は今ここでドレスを作っているのだ。
 顔が見えない誰かのためではなく、こんなドレスを着てみたいと願うお客さまの手助けがしたい、と。
 私はあの日、小指に刺した針の痛みに旅立ちを決めた。