D05 夢を視ないという夢

 小学校低学年の頃、僕は田舎の方の町に住んでいた。
 家は一軒家で、裏手には青々とした山が見える。どうしても夜眠れない時、親の目を盗んで布団から出て、月光に照らされたその山を縁側で眺めるのが好きだった。
 ただ、親には気付かれなくとも、おばあちゃんにはいつも御見通しだったらしい。
「眠れないのかい」
 縁側でぼんやりとしている僕に、おばあちゃんはいつもそう声をかけてくる。その柔らかい声は好きだったし、強制的に布団に戻されるでもなかったので、僕は「うん」と頷き、そのまま山を見続けていた。
 おばあちゃんは僕の隣に座って、黙って一緒に山を見ていた。晴れている日は、夜空に星がよく見えた。どこからか響いてくる蛙の声に、じっと耳をすませていた時もあった。
 やがて、おばあちゃんが「こっちにおいで」と自分の膝を軽く叩く。僕は素直にそちらへと赴く。そうするとおばあちゃんは、暖かな両手で僕の目を塞ぐのだった。
「悪い夢を見ないための、おまじない」
 穏やかに言うおばあちゃんの声が聞こえると、ふと安堵感に包まれてか眠気が襲い、僕は眠りに落ちていった。

 小学校も高学年になる頃、父の転勤に伴い、都市部への引っ越しが決まった。
 引っ越すのは僕と両親だけで、これからはおばあちゃんに寝かせてもらえなくなることを、少しだけ残念に思った。

 年月が過ぎ、僕は大学生になった。
 引っ越した先の家からも離れて、今は独り暮らしだ。大学の友人と共に飲み明かしたり、レポートに追われて徹夜するようにもなった。
 ある夜、友人たちがほうほうのていで転がりこんできた。肝試しに行ったはいいが、その先で恐ろしい目に遭って、とりあえず一番近くにあった僕の家に逃げこんできたらしい。
 やれやれと思いながら、とりあえず飲み物を振る舞う。友人たちは、髪の長い女が追いかけてきたの、車に手形がついて大変だったのと興奮気味に話していた。
 夜が明けてから、ほとんどの友人が帰っていった。一人だけが黙って日本酒を飲んでいた。
 そろそろ大学に行く時間だ、と言うと、ああ、と彼は頷いた。
「悪いな、酒なんか頼んで。そのうち飯でも奢って埋め合わせするよ」
「構わないけど。おまえは今日、休みだっけ? 徹夜で酒なんか飲んで大丈夫なのか」
 そう訊くと、彼は渋い顔をした。しばらく黙ってから、重たそうな口を開く。
「……女に追いかけられたって言っただろ。あれ、いつの間にかこの部屋にいたんだよ。もう出ていったけど。いつ取り憑かれるかと思うと、気が気じゃなくてな」
 日本酒は効くって聞いたことあったから、ずっと飲んでたんだ。
 その話を聞いて、今更背筋がぞわりとした。迷惑をかけて本当にすまない、肝試しにいったのは俺たちだけだし、おまえには害は及ばないと思う、と申し訳なさそうに彼が付け足す。そして、自嘲気味に笑った。
「霊感のない奴は、守護霊だか背後霊だかが、そういうものを視させないように目を覆っていると聞くが……それなら俺は、守られていないんだろうな」
 肝試しになんて行くような罰当たりだから、当然かもしれないが、
 そう言って玄関を出る彼を、僕はじっと見送っていた。
 ふと脳裏によぎったのは、おばあちゃんの顔だった。

久しぶりに母に電話をかけると、母は驚きながらも弾んだ声で応対してくれた。体調はどうか、学校は楽しいかという当たり障りのない話をしてから、僕は本題に入る。
「おばあちゃんとも、随分会ってないなと思って。久しぶりに会いたいんだけど、母さんや父さんも一緒に行く?」
 何気なく問うと、電話の向こうからは沈黙が帰ってきた。
 やがて、そうね、と母は呟いた。
『あんたが幼稚園の頃に、会ったきりだったっけ……』
 幼稚園? 前の実家では一緒に暮らしていたのに、何を言っているのだろう。よく寝かしつけてもらっていたし、と言うと、母は『そんなはずはないわよ』と驚愕の声をあげた。
 どうやら、僕の父方の祖父母は父と仲が悪く、長い間没交渉だったらしい。母方の祖父母は共に鬼籍に入っており、祖母は母を生んだ時に亡くなったのだそうだ。
 困惑したまま母に礼を言って電話を切り、ではあの『おばあちゃん』は、と振り返る。言われてみれば確かに、寝かしつけてもらった以外の思い出がない。一緒に遊んだり、食事をしたりという記憶もないのだ。何故そのことを、疑問に思わなかったのだろう。
『霊感のない奴は、守護霊だか背後霊だかが、そういうものを視させないように目を覆っていると聞くが』
 最後に帰った友人の声が、耳の奥にこだました。

 眠れない夜、ふとベランダに出て、ぼんやりと夜空を眺めたりする。雀の鳴き声が聞こえてくるまで、ゆっくりと思いを馳せるのだ。おばあちゃんの手のふわりとした暖かさや、その下にある瞼の裏の静かな暗闇に。

 きっと今でも、僕は目を覆ってもらっているのかもしれない。