D06 ヴォストーク・デイ

 二〇一九年八月三一日。五時三〇分。
 湊ユキはテレビから流れる臨時ニュースを眺めていました。しかつめらしい顔のアナウンサーが異常気象について解説しています。先週ヨーロッパで噴火した火山とその影響のことをしゃべっているようです。
「日照不足により大陸で発達した猛烈な寒気団が日本上空に差し掛かるため、列島全域で最低気温が氷点下を下回ることが予想されます。外出の際は防寒対策を」
 八月三一日が氷点下の一日になるなんて、まるで白昼夢のニュースのようでした。疑わしさを覚えながら、湊は出社の準備をはじめました。
 来週、偏西風に乗った火山灰が、とうとう日本にやってきます。会社の工場施設を保護するためには窓の隙間を目貼りしなければいけません。平日の間に作業はほとんど終わっていましたが、稼働中の機器があった実験室だけそのままになっていました。そこで総務の湊が土日の間に作業することになったのです。湊はクローゼットの奥から冬用コートを取り出しました。持っただけでも暑苦しくて汗が出てきそうです。振り返るとテレビはテロップを画面の上に残して別のニュースを流していました。
 結局湊は半袖ブラウス姿でコートを小脇に抱えて出勤することにしました。家を出て、早足で駅を目指して歩きます。空には曇天が広がっていました。北西のほうからおどろおどろしく吹き付けてくる風に不吉なものを感じながら、湊は駅までの道を急ぐのでした。
 さて嫌な予感とは当たるもので、徒歩から電車、電車から田園地帯のバスと乗り継いで、湊が工場の正門にたどり着くころには、底冷えのする冷気がコートの裾をはためかせていました。玄関フロアの自動ドアをカードキーで開錠して、震えながら入場すると、不思議なほどに蒸し暑い空気が湊を出迎えてくれました。工場内には昨晩の熱帯夜の気配がまだ残っていたのです。気温の低下がいかに急激で異常なものであったのか、これでわかろうというものです。
 湊は二階の居室に寄ったあと、養生テープと噴火時災害マニュアルを抱えて、階下の実験室エリアに向かいました。廊下の窓は既に他の従業員が養生済みです。薄緑色のテープで縁取られた外の景色を見て、湊は息をのみました。真夏の世界に雪が舞っていたのです。ひどく美しく、それでいてまがまがしさを秘めた光景でした。事実、ひらひら散るばかりだった雪片が、やがて、風に逆巻くように吹き荒れはじめたのです。湊が足をとめている間にも、気温はみるみる下がっていきました。慌てて実験室に向かおうとしたとき、ちょうど廊下の向こう側から人影が現れました。
 あれ、湊さん。
 不思議そうに目を丸くしていたのは、研究員の八代でした。フード付きのダウン、ジーパン、スニーカー、と、彼はコート姿の湊よりも厚着の姿でした。静電、と反射的に湊が注意すると、八代は肩をすくめました。湊さんだって安全靴履いてない。楽しそうに指摘したあと、八代の視線が湊の持ち物に移りました。
 なるほど。養生ね。休出だしヤダって言えば良かったのに。俺、今日出るつもりだったし、頼まれても良かったよ。
 総務の仕事ですから。開発の方に工数を使わせられないです。
 湊さんはマジメだね~。
 マジメなんですよ、と頷いて、そのまますれ違おうとしたとき、八代のぼやき声が聞こえてきました。
 わ、ヤバいな~外。
 振り返ると、八代は外を眺めていました。つられて窓の外を見て、湊は絶句しました。最初の降雪に気がついてほんの数分しか経っていないのに、そのほんの一瞬の間で、世界が雪化粧に一変してしまっていたのです。
 湊さん、電車が止まる前に帰りな。これは養生してる場合じゃないよ。
 さすがに八代の言う通りだと思ったので、湊は頷き返しました。二人で並んで居室エリアに戻ることにしたのです。
 息白いな~。
 ダウンのポケットに両手を突っ込んで、ひょっとこみたいな顔で八代が息を吐き出しました。彼は二六歳でしたが、そういう子どもっぽいところがある人間でした。ロジンの粉のようにまかれた白い呼気が、背後に吹き流されていきます。
 変だな。寒すぎる。どこか窓が開いてるんじゃないか。
 八代の声に応えるかのように、ミシ、ミシ、と建屋全体が揺れました。ギョッとして二人は立ち止まりました。外は吹雪が荒れ狂っています。白い巨人の手のひらが会社を握りつぶそうとしているようでした。殴りつけるように雪片が窓に叩きつけられ、まだら模様の氷壁がガラス窓の表面で成長していきます。
 突然、二人の背後でパンと音が破裂しました。飛び上がった二人が振り返ると、三つ後ろの窓ガラスが割れていました。息をのむ暇もありませんでした。続けざまに、パン、パン、と廊下のほかのガラスも砕け散っていったのです。割れた窓からは体温を奪う猛烈な吹雪が吹き込んできました。あまりの烈風に湊が目を閉じようとしたとき、ハッとするほどの力強さで腕がつかまれました。八代です。
 こりゃヤバい。
 腕を引っ張られながら、湊はガラスと雪を飛び越えて、居室エリアに向かって走りだしました。ようやく居室前にたどり着き、湊が息を荒らげている横で、八代がカードキーをかざしています。ですが、ロック解除の電子音が鳴りません。そもそも、LEDが点灯していませんでした。二人は顔を見合わせます。
 照明も落ちてる。停電だ。湊さん荷物は中?
 湊は縦に首を振りました。財布はポケットの中で、ほかの荷物は天気が回復した週明けの回収でいいです。そう伝えると、八代が頷き返しました。
 じゃあそうさせて。俺はもともと財布と車のキーしか持ってきてないから、そのまま帰れる。バスも多分止まってる。天気が落ち着くまで俺の家、つーか社宅だけど、避難しよう。車で送るよ。
 すみません、お世話になります。
 話しながら、二人は階段を下りはじめました。玄関フロアにたどり着いたとき、自動ドアのガラスの向こうでは今もなお白い吹雪が荒れ狂っていました。雪が降りはじめてほんのわずかの間だというのに、既に腰の高さまで積もっているのです。
 これはちょっと出られないな。
 裏口に非常口があったはずです。風向きも逆方向だから、雪が積もっていないかもしれません。
 お、いいね。頼もしい。
 素直な笑みを見せた八代に、湊はすこし動揺してしまいました。この人、感じいいかも、と思ってしまったのは、湊にちょろいところがあるのかもしれません。二人は玄関フロアを通り抜けて、トイレや更衣室が並んでいる暗い廊下を突っ切って、一番奥にある非常口にたどり着きました。廊下の一番奥には、重厚な鉄の扉がありました。
 あれが非常口?
 手を伸ばして、ドアノブを握り、手前に引こうとしたところで、八代がゾッとするような声を出しました。
 やばい。ドアノブにくっついた。
 え。
 恐るおそる、八代が手のひらを浮かせます。湊の目の前で、貼りついている部分だけ残して彼の皮膚が伸びました。反射的に湊は八代の手を両手で包み込んでいました。皮膚が裂けるかもしれないという本能的な恐怖で体が動いてしまったのです。
 あの、待ってください。お湯を用意すれば、安全に剥がせるんじゃないですか?
 そりゃそうかもだけど、停電してるしさ。
 救急車呼びましょう。
 この天気でここまで来れるかなあ。いいよ、ちょっと剥がしてみるから。
 待ってください。一つだけ、試してみたいことが。
 湊は手を握ったままその場にしゃがみこみました。
 いきます。
 宣言したあと、湊は大きく息を吸い込みました。そのまま、包んだ手に口づけるようにして、思い切り息を吐き出しました。包まれた手のひらと手のひらの隙間で、熱い息が魔法のようにくるくる踊ります。唖然としていた八代の前で、湊はドアノブからエイヤで右手を剥がしてみせました。彼の手のひらは赤くなっていましたが、ひとつの傷もないままでした。
 え。なに今の。
 実は私、学生のころは水泳やってたんで、肺活量には自信があるんです。
 ええ~? そういう話かなあ。温かかったけど。
 そういう話なんですよ。
 震えながらそんな話をしていると、遠くのほうでまたガラスが砕ける音が聞こえてきました。こりゃ外に出るのはもう無理かも、と八代が言いました。
 この雪だと駐車場に着くまでに遭難する。車も動かせない。
 じゃあ、もう、会社に泊まりませんか。建屋の中で一番暖かそうな場所でも探しましょうよ。あと、防災備品が倉庫室のロッカーに入っていたはずです。非常食と毛布も。
 でも停電でロックかかってるんじゃないかな。
 ドアのガラス割って入っちゃいましょう。
 いいね。マジメな湊さんの言葉とは思えない。
 そんなことを言いながら、玄関フロアを横切り、居室エリアに向かおうとしたときでした。
 うっそだろ。
 自動ドアの前で八代が立ち止まります。彼は外、と小さな声で言いました。そこにはぞっとするような光景がありました。自動ドアのガラスがてっぺんまで、完全に雪で塞がれていたのです。ミシ、ミシ、と、またあの音がしました。狂風と積雪が建屋を押しつぶそうとしている音です。
 離れよう。と、八代が口にした瞬間でした。自動ドアのガラスが吹き飛び、ガラスの破片と大量の雪が湊の上に降り注いできました。落下した雪の瀑布が巻きあがり、すべてがもみくちゃにされていきます。咄嗟に後退した八代の膝の高さまで雪はなだれ落ちてきました。雪煙がようやく収まったころには、湊の姿はすっかり雪の下に見えなくなっていたのです。外からは氷雪の暴風が肌を切り込むように吹き付けてきます。
 八代は湊の名前を呼びました。返事はありませんでした。右の手のひらが、いまさらヒリヒリと痛み出しました。

 二〇一九年八月三一日。十二時十二分。
 湊ユキが意識を取り戻したとき、八代は隣で使い捨てカイロの袋を左手と足を器用に使って開封しているところでした。二人は災害用のフェルト生地の毛布を体に巻き付けて、倉庫室の隅っこに並んで座っていました。そこでようやく、湊は自分の手が指先まで赤く腫れあがっていることに気がつきました。
 凍傷になってるから、あっためておきな。
 使い捨てカイロを放り投げるようにして寄越したあと、八代は毛布の中に手を引っ込めました。
 あの、八代さん、私……
 雪に埋まってたから掘り出した。
 あ、ありがとうございます。すみません。
 いいよ、別に。で、ここは二階の倉庫室ね。
 そう言って八代が倉庫室の入り口を示します。そこには窓ガラスが叩き割られたドアがありました。薄緑の養生テープが、ガラス代わりなのか、申し訳程度に貼り付けられていました。
 窓の大きいタイプのドアでよかったよ。あ、そうだ。湊さんのスマホ借りた。ごめん。ラジオ聞こうとしたんだけど、俺のバッテリー切れちゃって。ダウンのポケットじゃ保温がダメだったみたい。
 いまは養生テープで体に直接貼り付けてる、と冗談めかして言いました。
 音量上げようか。
 八代が毛布の中でゴソゴソしている間、湊は淑女らしく目を閉じて待っていました。やがて切羽詰まったようなアナウンサーの声が聞こえてきました。
「……日本列島を襲った大寒波による被害状況は……」
 さっき一一九番したよ。通報が多すぎて、対応は時間がかかるって。
「……既に凍死者だけで九名……」
 八代の悲しげな顔を、湊はまじまじと見つめました。隣り合う距離だと、彼のまつげが凍り付いていることがわかりました。くちびるにひび割れた血の跡があることもわかりました。もの言いたげな湊の視線に気がついたのか、八代が顎で壁を示しました。
 乾燥がひどいんだ。あれ見える? 温度計。この部屋、マイナス三十度なんだってさ。外はもっとすごいんだろうなあ。
 そう言って、笑ったあとに、強く咳き込みました。白い息が渦を巻きます。
「……各地で救助要請が続いており、当局は冷静な対応を……」
 とうとう湊は我慢ができなくなりました。
 八代さん、手。見せてください。
 困ったような顔の八代に覆いかぶさるようにして、橙色のフェルト毛布から彼の右手を引っ張り出します。現れたのは、血の気がまったく失せた、白く腫れあがった手のひらでした。死者の手でした。手のひらから、半分、皮膚が浮いていました。爪も、剥がれかけていました。八代が白々しく言い訳をします。
 いや、でも、痛くないんだ。全然。
「……行方不明者三〇名……」
 小さな謝罪の声はラジオにかき消されてしまいました。丸いコロコロした結晶が地面にふたつぶ転がります。八代は少し考えたあと、慈愛を込めて言いました。
 湊さんはマジメだなあ。これはお互いさまなんだよ。湊さんは俺の手を温めた。だから俺も湊さんを掘り出した。な。ほら、座って。先は長いんだからさ。
 そして、毛布でぐるぐる巻きにした中で、二人は赤白の手をつなぎました。
「……引き続き大寒波のニュースをお伝えします……」
 湊さんヴォストーク基地って知ってる?
 なんですか、それ。
 地球上で一番寒い場所。南極にある観測基地。最低気温がマイナス九〇度なんだって。
 南極やばいですね。
 な。スケールが違う。
「…………」
 ちょっとラジオ聞きづらくなってきたな。
 そうですね。
「……引き続き大寒波のニュースをお伝えします……」
 あのさあ、こんな寒いんだけど、俺、しょうもないことが心配で。
 なんですか?
 氷が解けたとき、手をつないだまんまだったら、気まずいなって。
 そんなこと言ったって、凍っちゃって、もうこれ剥がせないですよ。
 そうか。
 大丈夫ですよ。明日の朝には、きっと寒波が去りますよ。
 そうか。
 そうなんですよ。
 そうか。明日の朝に剥がせばいっか。
 そうです、そうです。
「…………」
 知ってます? 低体温症って、幻覚が見えるらしいですよ。
 そうなの?
 私、幻覚を見るならペンギンがいいです。ここがヴォストークなら、ペンギンもいるはずです。南極だから、アデリーペンギンとコウテイペンギン。きっと八代さんはアデリーですね。
 なんで?
 アデリーはお調子者で好奇心旺盛なんですよ。
 じゃあコウテイは?
 マジメで一途です。
 はは……。
「……午後二二時の時報をお知らせいたします……」
 ふと目を覚ますと、湊はまるまる太ったコウテイペンギンになっていました。わあ、と驚いて隣を見ると、毛布にからまってジタバタしているアデリーペンギンがいました。アデリーペンギンは毛布から抜け出すと、行こうぜ、と鳴いて倉庫室の壁をぶち抜いて、極寒の外へと飛び出していきました。コウテイペンギンも慌てて後ろに続きます。フリッパーをバタバタさせて、二羽のペンギンが雪面に着地します。外は白銀の世界でした。建物も、車も、街路樹も、守衛門も、全てが雪像と化して凍り付いていました。アデリーペンギンが振り返り、フリッパーを差し出しました。コウテイペンギンは三倍くらい大きな自分のフリッパーをその手に重ねて、雪原の大地へと歩きはじめました。そして、ふと見上げた空には、美しいオーロラと美しい三日月が掛かっているのでした。