E01 銀の御手のサジタリウス

   銀の御手のサジタリウス

 手のひらをかざす。
 親指、人さし指、中指、薬指。親指の付け根のふくらみ。小指側のふくらみにも。泥をつけた手で板に手形を捺せば、ちょうど泥の跡が残るだろう部位。そのうち、小指を除いた箇所に、まさしく泥のように、銀色の痣が点々と散っていた。
 痣がベッドの上の老人からもよく見えるよう、サジは手のひらを傾けた。
 老人は眦に皺を寄せた。しわがれた唇から、〈太陽〉を表す古い言葉が漏れる。サジの目にも、その顔にはどこからか光りが射して見えた。サジの手に残った銀の痣が、まるで曙光ででもあるかのように。
 老人の顔に浮かぶ安堵とも幸福ともつかぬ表情は、束の間、サジをためらわせた。
「サジ」
 サジは素早く視線を動かした。その先には、老人の痩せた身体に寄りかかる孫娘の姿があった。豊かに渦巻く銅線のような髪と、丸く愛らしい鼻。そして老人と同じ美しい黒オリーブ色の瞳は、懇願するようにサジを見あげていた。
 彼女の瞳と、こうして見つめ合うことを、たしかにかつてサジは望んだ。
 だがそれは、これほどに憂いを帯びたものではなかった。泣き濡れて、そののちに涙も乾上がった、このようなものでは、けっしてなかったはずだ。
 鉄の杭で貫かれたような痛みをサジは感じた。
 肋を穿ち、心肺までもを抉る苦痛。
「そなたに」
 耐えがたい痛みの中、サジは老人の頬へと手を伸ばした。触れて、告げる。
「銀の御手の慈悲よあれ」
 長い長いため息が漏れた。枯れた木の洞を抜ける風のように細く頼りない音。
 それが誰のものであるのか、サジにはわからなかった。
 ただ、わかるのは、己を貫く痛みのこと。
 それを自らにもたらすべき、白く、雪のごとき、白皙の、自らの胸に向かって長くのびた美しき切っ先のことだ。

 草むらで息をひそめ、サジは堅いイチイ材の弓を撫でた。
 自ら作った弓に、自ら作った箭をつがえ、〈聖なる山〉で獲物を仕留めること。狩人の験し。期限である三日三晩のうちに使命を果たせなければ、生まれ育ったこの森を出ねばならない。
 そうでなくともサジは異端の子だ。
 成人である十五を過ぎ、このままならば、漂泊の生が待つのみ。
 ならばすべて、遅いか早いかのこと。〈聖なる山〉に己が運命を問うてみるほかにない。
 かくしてサジは験しに名乗りを上げた。しかし、この十年、狩人と認められた者はたったふたり。験しを受けた者はその四十倍はくだらないという、狭き関門だった。
 溺れそうなほど濃密な魔性の気配に、サジは息をゆっくりと吐き出した。すこし気を抜けば、肺腑が押し潰されてしまいそうに思えた。震えだす身体の手綱をとりながら、深く、深く息をする。
 試練は厳しい。だが、真におそるべきは、験しに成功した者の数などではなかった。
 十年のあいだ、追放者がただのひとりもいないことだ。
 古き魔性の息づく〈聖なる山〉がサジを験す。
 裁定の天秤の一方には、彼自身の心臓が載っているのだ。

 試練の期限となる三日目、サジの焦燥は限界に達していた。
 この三日、ついにひとたびも、彼の弓が箭を放つことはなかった。
 なにしろ獲物がいない。
 これまで数多くの凡夫を葬ってきたであろう、〈聖なる山〉に跋扈する魔性どもすら、彼の前には爪牙のきらめきすら見せなかった。験しを終えた男たちを歌った勇ましい詩の数々を思い返すに、これが異常なことであるのは明らかだった。
 初めは移動すら怯えながら。しかし三日目ともなると、こうして恐怖より焦りが勝ちはじめた。
 サジの所作は遥かに大胆となり、彼はいま、〈聖なる山〉を気配すら殺さずに駆けていた。
「プロメ」
 少女の名が思わず口をついた。
 銅線みたいな髪、太い眉。底抜けの笑顔と黒緑の瞳。
 異端の子に石を投げず、花をくれたひと。
 彼女と共にありたい。彼女と並んで歩むことのできる自分でありたい。呪わしき異端の烙印も、狩人の験しをくぐり抜けた名誉の前では力を失う。そのことに思いいたったとき、サジの胸を支配したのは、そんな、ひたすらに純粋な思いだった。
 太陽が中天に昇ろうという時刻、ふいに雲がその温もりを遮った。景色が薄墨を刷いたように暗くなって、サジは足を止めた。
 なにかがおかしかった。
 すぐさま灌木の陰に飛び込み、慎重にあたりをうかがった。
 冷たい風が、うなじの和毛をくすぐる。すでに弓は構え、ニワトコの枝で作った箭をつがえていた。その鏃が、遠く、そこだけ木漏れ日の落ちる一点を指して、止まる。
 唾液を嚥下する音が、遠雷のようにひびく。
 窄まった視界の先。木漏れ日が下生えにつくる、まだらな光の絨毯。そこに真っ白なひづめが入ってくる。次に前脚が、鼻先が、瞳が、首が、胸が、肩が。
 暗がりに隠されていた肢体が、光によって徐々に輪郭を現すさまはまるで、いままさに大理石から彫りだされつつあるかのようだ。
 サジは言葉を忘れ、進行する光の彫像へと魅入った。
 そうしてようやく全身を陽の下に現したのは、一頭の美しい白馬だった。
 サジが耳元で、びょう、という音を聞いたのと、白馬が彼を見たのは同時だった。すくなくとも彼は刹那、そう考えた。だが実のところ、その後起こったことを思えば、白馬が彼を見たほうが早かったのだ。
 鏃は白馬の頚を掠め、傷口は血しぶきを舞い散らせた。木漏れ日の下できらめくその血のひとしずくまで、狩人たるサジの目はとらえていた。
 血は水銀のような青みがかった銀色だった。
 そして、なおもサジを見つめる白馬の額には、一本の角が伸びていた。
 それこそが彼の手元を狂わせた元凶だった。
「一角獣」
 神々しき魔性がそこにあった。

 山を下りたサジを出迎えたのは、驚きと嘲りのまなざし。軽蔑の笑み。
 それは異端の子に対する、常と変わらぬ村びとたちの歓待のさまだった。
 日暮れ前に村に現れた少年の持ち物は、背にかついだ弓と腰に提げた山刀だけ。それらは狩人の験しにあたって携行を許される、ただ二つの品だった。
 試練を生きのびたことは予想外だが、験しに破れたのは予想通り。
 彼を囲んだ村びとたちは、ついに異端の子が村を去る瞬間が来たとざわめいた。
 だがそれも、彼が取り出したものを見るまでだった。
 螺旋に溝が刻まれ、純白にほの光る一本の角。
 そしてそれを握りしめる手のひらは、月光のように明るく、銀色にかがやいていたのだ。
「帰ったか、サジタリウス」
 どよめく群衆を割って老人がやって来た。
 細身で小柄な、しかし威厳を感じさせる村の長老。
 その後ろに付き従うのは、
「プロメ」
「サジ、やり遂げたんだね。信じてたよ」
 少年は頷いた。飛び込んできた少女の体重を受けとめて、そのまま強く抱擁する。
 予想していなかった反応だったのか、少女は「わあ」と声を上げた。腕の中でもぞもぞ身動きすると、ブラックオリーブの瞳がサジを見上げる。口元には稚気の混じった笑み。
「いつからそんなに背が高くなったの?」
「ずっと前からだ」
「うん。知ってるよ」
 サジは、少女の温もりが、自分の体の奥まで波紋のように広がるのを感じた。
「こら、プロメ」
 老人は孫娘を優しく叱ると、サジからそっと引き離す。
「われわれの村の〈狩人〉殿に、失礼をするでないぞ」
 その一言に、事態を見守っていた村びとたちがいっせいに歓呼の声を上げた。
 この村では初めての狩人だった。村びとたちの変わり身の早さに腹を立てることもできたが、サジはそうしなかった。これから一生、この村で生きていくのだから。
 きっと、プロメと共に。

〈聖なる山〉で獲物を捕らえた狩人はみな、その獲物になぞらえた異名を得る。
 得るというより、詩人たちが活躍を讃えた詩を歌えば、自然とその中の異名が定着するというだけのことだが。ともあれその名は〈聖なる山〉を囲む近隣の集落すべてに轟く。
〈小鬼殺しのイシドエル〉や〈野狼討ちのサン〉といった験しの獲物にまつわる名もあれば、〈知謀のシャハ〉や〈摩天のロートリエウス〉といった、本人の個性に由来するものもある。
 サジに与えられた異名はまず前者で、それから後者に変わった。
「おい、〈一角折り〉」
「なんだ」
 呼びとめられたサジはふり返り、三人の村の若者を認めた。
 当然だが、そうして狩人として異名を得たからといって、すべてがいちどきに変わるというわけもない。心に深く根を張った敵愾心や差別心は、名声ひとつでは取り除けない。
「なあ、本当のことを言えよ、狩人様よ。あの角は偽物なんだろう。お前は森の掟を破った異端者の子だ。どうせ浅ましい人間の商人から買いでもしたに違いない」
「ちょっとあんたたち。サジはもう」
「いいんだプロメ」
 猛り立つ少女をサジは制した。
「たしかに俺は異端者の子だよ。森の掟を破って人間と交わり生まれた〈雑じり〉だ」
 だが、とサジはすばやく背中から弓を抜き放った。若者たちが構える前に、すでに箭は放たれている。その鏃は寸分も違わず彼らの額に突き立っている。
「それでも〈狩人〉だ」
 ただし、地面に伸びた影の額にだ。
 悲鳴すら上げることができない若者たちを尻目に、二人はふたたび並んで歩きはじめた。
「ちょっと怖いくらいだね」
 プロメの言葉に、サジはあいまいに頷く。彼女が彼の手のひらのことを言っているのがわかった。神域に達する弓の技は、間違いなくそこに残された銀の痣のせいだった。
 サジはその痣を、一角獣の血に触れたせいだと説明していた。
 あの銀色の血。木漏れ日に舞い散ったしぶき。美しき化生の姿を。
「サジ?」
「すこし、考えごとをしていた」
「そう? 楽しい考えだったら嬉しいんだけど」
「きみがいればいつだって楽しいよ」
「お上手だこと」
 この日サジが長老から呼ばれたのも、その痣が理由だった。

「一角獣の血には力がある。痛みを取り除き、安らぎを与えることのできる力だ」
 長老が言った。いま三人がいるのは、村でも有数の弓作りの名手、アルの家だった。
 彼は寝室に続く扉を示しながら続けた。
「であれば、サジタリウス。そなたの手にも、その力が宿っているのではないか。今日はだから呼んだのだ」
 彼の黒オリーブのまなざしと、狩人としての知識から、サジは長老の求めるところを寸分違わずに了解した。
「癒やしの力ってことだ?」
 孫娘に問われ、うむ、と長老は唸った。
「似たようなものだな」
 サジタリウス、と長老に促されて、サジは寝室に入った。扉の向こうでプロメが文句を言う声が聞こえた。なぜ婚約者である自分がいっしょに行ってはいけないのか、とそういった内容だ。
 彼女の明るい声を耳にしたあとで、寝室の様子は余計に悲惨だった。
 サジは虚ろな表情を浮かべた家族たちと目を合わせないようにしながら、ベッドまで近づいた。
 痩せた老女が横たわっていた。皺だらけの顔に、頬骨が浮き、髪はまばらに抜け落ちている。落ち窪んだ眼窩の奥には、意識の兆しさえ見えなかった。
 彼女が異端の子にも分け隔てなく弓作りの技を教えてくれたあのアルテミスなのだとは、にわかには信じがたいほどの変貌だった。
〈聖なる山〉を戴く森の民は長命だ。十五の成人の歳を超えてのち、その身は病を寄せつけず、生涯、死の苦しみとは無縁だ。その死は勇猛な戦いのただ中か、穏やかな睡りの内にあって、けっしてこのような醜く長引く苦痛ではありえない。
 であるのに。アルの様子はどうだ。
 彼女を冒すのはこの数年、森の民を襲いつつある病だった。
 原因も理由もわからない。どころか、実のところ、これが病であるのかすらわからない。そも、老いによる衰えとも、病による苦しみとも無縁なのが森の民だ。それを究明する手段や知識があるはずもなかった。
 だから、サジが呼ばれた。
 一角獣の角と血。
 万病を癒やすという角は、人間にとっては垂涎の至宝であろう。
 だが、もとより病を寄せ付けぬ、サジたち森の民にとってはそうではない。欠片を粉末にして啜らせてもアルは癒えなかったのだから、その伝承ですら疑わしくあるほどだ。
「〈一角折り〉殿。どうか祖母に慈悲を」
 枕元に立ち尽くすサジに、すがるような言葉がかけられる。
 サジはぎこちなく頷き、その右手をかざした。
 月光のような銀色が薄暗い寝室を照らし、アルの顔におだやかな光を取り戻す。
「アルテミス。なんじ、よく眠れ」
 頬を撫でる。寝室のそこここから、家族たちのうめきと、感謝のつぶやきとが聞こえた。
 角が万病を癒やすのならば、一角獣の血は万病を終わらせる。
 それは至高の毒薬なのだ。
〈銀の御手のサジタリウス〉
 それがふたつ目の異名であった。

 花をもらった。あの幼い日の野原で。石の代わりに花をもらった。
 痛みの代わりに、かぐわしい香りを。可愛らしい色を。
 そして、柔らかい温もりを。
 ならばそれを他の誰かにも返したいと思うのは、間違いだったのだろうか。たとえば、毒にもがく美しい化生。その角を切り取り、立ち去ってしまったことは。
 異端者である父のことで、サジタリウスがいまもはっきり覚えているのは、彼の言葉だ。愛した人を掟に従った同胞たちの手によって奪われ、故郷を放逐される前のこと。
 けれど、もうその時には、彼は自分を待つ未来を予感していたはずだ。
「サジタリウス。畢竟、ひとが手に持つことのできるものは、二つしかないんだよ」
「ふたつ?」
「そうさ。なんだと思う」
 考え込んで唸るサジタリウスを父は笑って、すこし難しかったな、と言った。
「それはね、剣と花なんだよ」
「剣と花?」
「ああそうだ。剣と花だよ、サジタリウス」
 古い、それはとても古い記憶だ。

「サジタリウス」
 名前を呼ばれてふり返った。風になびく銅線の髪。プロメだった。
「君にそうやって呼ばれるのは久しぶりだ」
「そうだっけ」
 サジタリウスは頷いた。
「また、なにか考えごと?」
 様子をうかがうようにプロメは尋ねる。無理なからぬことだと思った。彼女は〈銀の御手〉の力が振るわれるさまを初めて見たのだ。それも、自らの祖父に対して。
「思いだしていたんだ。父のことを」
「お父様のこと」
 ふたたびサジタリウスは頷く。
「なあプロメ。父は幼いぼくに、ぼくたちが手に持つことのできるものは、たった二つしかないのだと言ったんだ。それは剣と花なんだって」
「剣と花」
 プロメが眉根を寄せてくり返した。
「うん。剣と花だ。子どものぼくにはよくわからなかった。だけど、いまはわかるような気がしてしまう」
 サジタリウスは自分の胸に手を当てた。銀の痣がほの青く光った。
 あの日、貫かれるべきだった胸には、傷跡も、深い孔もなかった。
 痛みだけがあった。
 けっして与えられることのない、まぼろしの痛みが。
「弓がある」
 サジタリウスは顔を上げた。
 プロメが彼を見つめていた。黒オリーブの瞳がおだやかに微笑んでいた。
 サジタリウスは、自分の胸の内に射し込む光を感じた。
 それは銀色の、あの冷ややかな光ではなかった。
「弓があるよ、サジタリウス」
 あたたかな、太陽に似た、黄金色の光だった。