E02 五月の庭、蕾の君は目を閉じたまま

 僕のおじさんは緑の手を持っている。
 特に薔薇に好かれているようで、爽やかな初夏の庭ではあちこちで薔薇が咲き誇っていた。蔓薔薇のアーチを抜けると甘い香りが漂う。
 現れた僕に、薔薇の手入れをしていた青年が苦笑する。この青年こそが僕のおじさん――こうちゃんだ。
「あきら、今日も学校はサボり?」
「……お説教ならいらない。聞き飽きたし」
 平日の午前十時。とうの昔に学校は始業ベルが鳴っている。今頃同級生たちは黒板とにらめっこして退屈な授業を受けていることだろう。
 そんな時間に、ジーパンにTシャツ、その上にパーカーを羽織っただけの僕はとても登校するための格好には見えない。行く気がないのだから当然だ。
「こうちゃんこそ仕事はいいの? 今忙しいって聞いたけど」
 おじさんと言っても、こうちゃんは正確には僕の母親の従弟だ。他人に関係を聞かれると説明が面倒なのでおじさんということにしている。
 だから僕は基本的におじさんとは呼ばない。小さな頃からそうしていたように、馴れ馴れしく十歳も上の大人をこうちゃんと呼ぶのだ。まだ二十代のこうちゃんも、おじさん呼ばわりは気分も良くないはずだ。
「忙しくても、息抜きも必要だろう?」
「じゃあ僕のサボりも息抜きだよ」
 庭に置かれているベンチに腰掛けて、足を組む。騒がしい家から逃げて、この庭でゆっくり本を読んだりゲームをしたりするのが僕のお気に入りの時間の過ごし方だ。とても贅沢をしている気分になれる。
 だってそうだろう? 皆は仕事だったり学校だったりで、窮屈な時間を過ごしているっていうのに、僕は時間に追われることもなく気ままに過ごせるんだから。
「こうちゃん、今はどんな話を書いてるの?」
「内緒」
 こうちゃんは小説家だ。それも、僕にはとても見せることができないようないかがわしいものを書いているらしい。官能小説家というやつだ。
 二十代後半になってもまだ童貞ですといった、少し野暮ったい格好とぼさぼさの髪、目を隠すほど長い前髪なんていった姿からは、そんな小説を書いているだなんてとても想像できない。怪しいオカルト小説を書いていると言われたほうが納得だ。
 高校生になったばかりの僕は、こうちゃんの小説を読んだことがない。それどころか、こうちゃんの筆名も教えてもらえずにいる。いつも聞いたところで微笑んで「内緒」とはぐらかされてしまうからだ。
 華やかな庭のあるこの小さな一軒家の二階が、こうちゃんの仕事部屋だ。僕は二階に上がることすら禁じられている。よほどいやらしい話を書いているに違いない。
「髪、切ったんだね」
 こうちゃんが冷えた麦茶を片手に話しかけてくる。薔薇たちの手入れが終わったらしい。
「うん。ちょっと伸びてきて暑かったから。もうすぐ夏だし」
 麦茶を受け取りながら、こうちゃんを見る。
「こうちゃんこそ髪切ったら?」
「そのうちね」
 職業的に外出の必要がないからか、こうちゃんはほとんど家の外に出ない。引きこもりというほど不健康さを感じないのは毎日庭の手入れをしているからだろう。肌は日に焼けているし、園芸は力仕事もあるのでほどよく筋肉がついている。
「この間あきらが持ってきたミニ薔薇も元気になったよ」
「ああ、母さんが放り投げて死にかけていたやつね」
 見た目が可愛かったからと買ってきておきながら、結局まともに世話をせず小さな薔薇は枯れかけていた。
 すぐ駄目になるからつまらない、という理不尽な理由で放置されていたそれをこうちゃんのところに持ってきたのは僕だ。
 カランとグラスの中の氷が音をたてる。
「こうちゃんは緑の手を持ってるから死にかけている花も元気になるね」
 植物を育てる才能を持つ人のことをそう言うのだと知ったのはつい先日だ。
「緑の手? 指じゃなくて?」
「緑の手ともいうらしいよ。僕や母さんはその逆だね。枯らす才能はある」
 観葉植物なんて気がつけば枯れている。手間のかからないというサボテンですらいつの間にか無残な姿になっていたほどだ。
「――先生? 庭にいらっしゃるんですか?」
 薔薇の咲き誇る庭に、薔薇のように艶やかな声が飛び込んできた。
 あれ、とこうちゃんが目を丸くする。
「木下さん、どうしたんですか」
 木下という女性は、スーツ姿の綺麗な人だった。黒い髪を一つにまとめて、赤い口紅がよく似合っている。
「どうしたって……朝一番に伺いますってお伝えしてましたよね?」
 こうちゃんに用事があるような人は多くないはずだ。スーツ姿で気安い様子からして、知り合いなのは間違いない。……つまりこうちゃんの担当の編集さんなのだろう。
 そう、こうちゃんはこうして土いじりばかりしているけれど、立派な社会人だ。きちんとお金を稼いでいる。
 僕は麦茶をベンチの上に置いて、スマホをパーカーのポケットに突っ込んだ。
「あら、その子は……?」
 編集さんが僕に気づいた。こうちゃんが「ああ」と口を開いて僕を紹介しようとするのを遮る。
「おじさん、お客さんが来たみたいだから僕帰るね」
 そのたった一言で僕とこうちゃんの関係は説明できる。こうちゃんはまったく知らない未成年を庭に入れるようなお人好しではないから、必然的に僕は親類だと思われる。そして親類というどこか遠い言葉が僕とこうちゃんを示す正しい答えだ。
「え、あきら!」
 蔓薔薇のアーチを抜けて、甘い香りのする庭から飛び出す。
 帰るって、どこに帰ろう。家には母さんがいる。今更学校に行くなんて面倒くさい。
 パーカーのポケットに手を突っ込んで、行く宛もなくふらふらと歩く。平日の昼間の住宅街は静かなものだ。共働きも多いこの世の中、この時間帯に家にいる人間は少ない。
 近所の公園は寂しいものだ。僕が小さな頃にあったはずの遊具は年々数を減らしていって、今ではまともな遊具なんてありゃしない。危険だという理由で取り払われて、今では公園という名のただの更地だ。早朝に元気な老人たちがゲートボールをするくらいにしか活用されていない。
 寂れた公園のベンチに座る。ちょうど木の影になっていて日差しから逃げることができた。
 繰り返される毎日は代わり映え無く、時折どうして生きているのだろうという疑問が浮かぶことがある。
 寝て起きて学校へ行って、人生に必要なのかどうかわからないような公式や年号を頭に詰め込んで、家に帰って寝る。ずっと同じ繰り返し。それがたまらなく息苦しいと感じて、あのこうちゃんの庭に行った。
 あれはまだ春の浅い日。庭のなかはまだ静かなもので、小さな蕾をつけて今か今かと咲き誇る瞬間を待ちわびる花たちがそこにいた。その最高の瞬間のために、こうちゃんは手入れを欠かさない。
『あれ、あきら。いらっしゃい』
 平日の午前中。制服を着たままやってきた僕を見ても、こうちゃんはいつもと変わらず迎え入れてくれた。
 不思議と呼吸が楽になった。胸につかえていた何かがすっと消えて無くなるような感覚があって、僕はそこで繰り返される毎日を壊したのだ。
 それ以来、あの庭は僕の楽園。……逃げ場所と呼ぶにはあまりにも綺麗すぎる。
 ベンチの背もたれに頭を預ける。空を仰いでいると、木漏れ日が眩しくて目を閉じた。このまま暢気に昼寝でもしようかという誘惑に駆られる。時間を潰すために公園で昼寝なんて、リストラされたサラリーマンみたいだ。
「あきら」
 声がして、薄く目を開ける。
 僕を見下ろすこうちゃんの姿に苦笑した。
「……お客さんは?」
「帰ったよ。もともと時間のかかる用事でもなかったからね」
 ふぅん、と小さく零す。
 また目を閉じると、こうちゃんが困ったように「あきら」と僕の名前を呼んだ。それでも頑なに目を開けない僕の頭をこうちゃんの手が撫でる。
 こうちゃんの手は育てる手だ。慈しむものを知る手だ。
 拒まれることのないその手に、僕はときどき甘えすぎている。甘えすぎているという自覚が、ある。
「帰るよ、あきら」
「……どこに?」
 こうちゃんを見上げたまま、小さな声で問う。
 どこに。
 僕はどこに帰っていいの。
「決まってるでしょ」
 はっきりとは答えないまま、こうちゃんは踵を返す。僕がついてこないならそこまでだとでも言いたげな突き放した態度に笑う。突き放すなら、探しになんて来なければいいのに。
 ベンチに座ったまま、こうちゃんの背を見る。公園の入り口で、こうちゃんは立ち止まって振り返った。
 あきら、と声に出さずに呼ばれているような気がする。
 僕は小さく笑みを零して立ち上がる。日陰にいたおかげであまり感じなかったけれど、昼近くになった日差しはなかなかきつい。まだ五月だっていうのに、肌を焼くような暑さだ。
 語り合うこともなくただ無言で静かな住宅街を歩く。叱られるようなこともない。だって僕は叱られるようなことはしていないからね。当然、仲良く手を繋ぐこともない。もしかしたらこうちゃんは僕が逃げないように捕まえておきたいのかもしれないけれど、そんな子どもみたいな真似はまっぴらごめんだ。
 帰ってきたのは、こうちゃんの庭だった。
「お昼にしようか」
 そう言いながらこうちゃんは庭へと入る。こうちゃんが玄関を使うことはあまりない。いつも出入りは庭に面した窓からだ。もうすぐ正午になる。
 定位置のベンチに座る気分になれずに、庭の中で立ち尽くす。蔓薔薇のアーチ、白い野薔薇、足元には小さな薔薇やハーブが咲いている。地面なんて見えないくらいに花でいっぱいだ。
「それ、あきらが持ってきたミニ薔薇だよ」
 家に入る前にこうちゃんが気づいて、ちょうど僕の足元にある小さな薔薇を指差した。淡い黄色の薔薇だ。
「……こんな色していたんだ」
 母さんが買ってきたばかりの頃は咲いていたのかもしれないが、僕はその時の姿を覚えちゃいない。すっかり萎れてしまっていたミニ薔薇は、そんな過去を忘れたみたいに生き生きとしていた。
「こうちゃんはすごいね」
「すごくないよ」
 こうちゃんは照れ臭そうに笑いながらしゃがんで、黄色い薔薇にそっと触れる。その仕草はとても優しい。
「水と光と、あと少しの愛情があればどんな花だってすぐ元気になる」
「……そんなに簡単な話じゃないよ」
 慈しみ育てることを得意とする人がいる。その逆の人も当然いるのだ。
 僕の母さんがそうだ。愛されていないというわけではないけれど、あの人は育てることが壊滅的に苦手なのだ。自分のことのほうが大事で、他のことはすぐに忘れてしまう。奔放的というやつなのかもしれない。
「簡単なことだよ」
 こうちゃんは微笑みながら告げる。
「疲れたら休息を。成長には栄養を。必要なものが揃えば、元気になる」
 大きな手のひらが僕の頭を撫でた。
「だからあきらも、すぐ元気になるよ」
 こうちゃんの手を払い除けて僕はじろりと睨みつけた。
「……僕は元気だよ」
「そういうことにしておこうか」
 くすくすと笑う底意地悪い大人に、僕は機嫌を損ねながら我侭を言う。
「お腹空いた、早くごはん!」
「はいはい」
 僕に急かされてこうちゃんは家の中へと入っていく。子ども扱いしやがってと毒づきながら僕はベンチに腰を下ろした。
 そうだよ、別に僕はしょげているわけじゃない。元気がないなんてことはない。励まされるようなことなんて、何一つない。これはそう、寄り道みたいなものだ。ただなんとなくそんな気分になったから。それだけの話。
 さやさやと五月の風が吹く。
 僕の小さな楽園は、今日も美しい。