E04 飲み干す残滓

 もう、誰にも止められない事は分かっていた。思い描く幻想に救いはただの一つさえ存在しない。
 それでも、混ぜ続ける欲望を満たす事ができるのならば。この手に握り締めた残滓(ざんし)を誰よりも愛しい君が飲み干してくれるなら。
 ただ、それだけで良かった筈なのに、どうしてそれ以上を求めてしまうのか。
 思い描く夢想に救いの日差しはひとつも見当たらないというのに。
 ──何で、君をこれほどまでに求めてしまうのだろうね?



「まだ宿題が終わっていなかったの? もうすぐ冬休み、終わっちゃうよ」
「……うるさいな、相変わらずお節介なやつ」
「姉に対してその口の聞き方、生意気ね」
「あー、はいはい」
 もう思春期の……高校一年生と中学三年生が相部屋だなんて誰が聞いても憐れみの視線しか送らないだろう、とため息を付く私、咲希(さき)は今日も悪態をつく弟の孝行(たかゆき)に呆れ果てていた。
 いい歳したふたりの小競り合いに内心苦笑してしまう。
 それもそのはずだった。冬休みもいよいよ佳境に差し掛かっているのに一向に冬休みの宿題をしない孝之。そればかりか課題の山を片付けようと焦るこちらには視線一つ寄越さずスマホばかりを見つめている。きっと流行りのソシャゲでもやっているのだろうと呆れていたところ、声が響く。
「さきー、たかゆきー、ご飯できたから来てちょうだい」
「はーい」
 遠くのキッチンからもバッチリ聞こえるお母さんの声に反応したのは孝之だった。
 私に対する反応と違って無邪気なあいつに今度は私が悪態をつきたくなった。
 お母さんにはあんなに無邪気なのに、どうして私にはかっこいいクールな男子を演じるのか。年も相まって生意気だという思いがどうしても強い。
 それでも、やっぱり本能には逆らえないようで私は美味しいご飯が待つリビングへと走り出した。
「なんなのよ、孝之」
 もうそこにはいない彼に私は悪足掻きとばかりに八つ当たりした。

***

「いただきまーす!」
 お母さん……いや、母は律儀な性格だと思う。自分で先々食べずに座って待っていたようで、父もそれに従っている。私と孝之が座ったと同時に号令とともに食べ始めた。
 年頃となれば、況してやあと三年も経てば新天地に行くか仕事三昧になるかで既に個人のペースでご飯を食べることが多いと、同級生の話を聞いていて思う。そんな中、未だに団欒を楽しむ私は幸せと同時に表現出来ない苦しみを密かに抱えていた。
 でも、幸せだと思う。感情的になりやすい思春期にしては有り得ないほど家族との仲は良好。その理由は母も父も子どもの意思をそれなりに大事にするからなのだろうと最近になって思っていた。
 もちろんそこは親。わがままも過ぎればピシャリと叱られるわけだけど、その後は一切触れないし言わない。きっぱりと終わらせ新しい話を振る朗らかなふたりに助けられて私たちは自主的に勉強や遊びに精を出した。
「ああ」と声を出した母に一同は視線を向ける。 
「そういえば、孝之は昨日登校日だったけど」
「ああ、そうなんだよ。そこで冬休みの宿題片付けた」
「ええっ!?」
 いつもの近況みたいなのを聞いた母に対する孝之の衝撃的な発言に私は立ち上がった。宿題、終わった、だって?
「二学期の最後、自習だったし、そこで粗方片付けました。咲希はどうせ終わってないんだろ?」
「う、うるさいわね!」
 それであの余裕綽々な笑顔だったのかとまたしても怒りに近い感情を認識したが、同時に言い知れぬ劣等感が私の心に襲いかかり、重い鎖で縛られたように身動きが取れない。
 元々違う星の元からやって来たのかもしれないと諦めに近い悟りを持たなければ私は崩れてしまいそうだった。
 そう、孝之は何をやらせても天才、だと思う。運動も勉強も申し分無い。成績はいつも上位。
 顔だってそこそこ良いしよく女の子からの黄色い声を受け取る有様。私の同級生でさえ目を輝かせて言うからそうなんだろう。
 ああ、そういえば中学校の時なんか孝之目当てで私に近寄ってくる女の子がいたなぁ等と思い起こす。
 昔から女らしさを端に置いてきた私からみれば孝之に憧れる女の子がとても可愛くて孝之に毎日彼女達の話をしていた気がする。
 ただ、孝之は告白という告白を全て断ったらしい事が何となく心に引っかかっていた。
 もちろん特に理由は聞かなかった。そもそも恋愛は無理矢理するものでもないし自由だとは私も思う。だけど孝之に必死な女の子達を見る度に可愛いし私には持ち合わせない女の子らしさが眩しくて私はつい孝之に彼女達の想いを汲み取るよう優しく諭していたのだ。
「……ごちそうさま」
 空腹はとても正直なのでそれに従い、自分の分は難なく平らげたが何故かおかわりする気にはならなかった。見えない鎖のせいだと内心憤慨する。
「あら、珍しいわね」
「たまには、こういうこともあるんだって」
 母の問いかけに私は務めて明るい返事で応じた。よく明るく人懐こいと言われる私はなかなか内に抱える暗い気持ちを明かすことが出来ない苦しみをもう随分前から背負ってしまっていた。そう、孝之に対するあらゆる醜い何かを声に出して言えるはずもない。
 ──孝之、随分遠くなったよね。
 そういえば……その後からだろうかと昔のことを掘り起こした。
 何故だか知らないけどふたりきりで話す時、孝之は私の事を『咲希』って呼ぶようになったのだ。生意気な自己表現としてよく喧嘩もした。
 でもわからないのは家族がいる時だ。その時は相変わらず『姉ちゃん』と呼ぶ。呼び捨てなのはふたりの時だけだ。どんな違いで孝之は使い分けているのか。私には今の孝之がわからない。わからないということが暗い気持ちの根っこだろう。
 同時にもう何度気付かされたのだろうかとひとり絶望する。所詮、私と孝之は血の繋がりがあるだけで別の生き物だという事実が悲しいのだ。
 そして、私よりもずっと眩しく光に愛された孝之は、更に遠くへ行ってしまうのだろう。私の知らないところへ。
 深層心理へのちょっとした問いかけが更に泥沼へと思考を走らせてしまうので平常心を装いながら孝之から遠ざかる。
「宿題、頑張って終わらせないとなぁ!」
「そうよ、咲希。内申点は大事よ」
 学歴を持たない母は子どもを大学に行かせたくて時々こんなことを言う。もちろん高校卒業してすぐ働く人生など考えたくなかったので粗方賛成はしているのだが。まあ、でもどうせ孝之の方が何もかも上だからそのうち私にこんな小言を真剣に言ってくれる日はなくなるのだろうと思うと改めて悲しくなる。私は望まれていないのかもしれないと。
 だって高校なんて余裕綽々で乗り切る孝之はもうその先の大学を見据えているのだろうから。



「全然進まないや」
 小一時間経ってからも相変わらず真っ白なテキストを見て唸る。
 もうどうしてこんなにも苦しいの。八つ当たりもそこそこにとうとうシャーペンを乱暴に置いた。
 そう、まだ冬休みはあったからここまでにしてさっさと寝てしまおうか。
 孝之と違って勉強嫌いな私は理由を見つけてすぐにベッドへ向かう。そこでまた嫌なことを思い出した。
「……そういや、明日は早かったね」
 進路相談の関係で明日は学校に行く事になっている。つまり、早起きだ。
 やはり課題は切り上げてよかった。
 納得させたら安心感から眠気が深くなる。身を委ねて眠りに落ちようとしたその時だった。
「咲希」
 微睡む視界に、薄らと孝之の姿を捉えた。
「……孝之、どうしたの」
 眠りを妨げられた事から思わず不機嫌な声で反応してしまった。
 最も、意に介さないという態度で孝之はベッドの端に腰を下ろし、丸まった私の頭を撫でた。こんなに近くにいるなんて気づかなかった。まあ、弟と同じ部屋なので今更だ。
「咲希は本当に可愛いよな」
「お姉ちゃんに殺し文句言うなんて」
 彼女に囁くみたいに可愛いなんて言ってる孝之に苦笑する。好きな人でもできたのかもしれない。それはとても喜ばしいことだと笑ってみせる。だって、姉を練習台にして女に免疫をつけるのだ。
 孝之の健気な努力に私は微笑ましく感じたけど、孝之の表情は曇る一方だ。
「ああ、そうか……咲希は俺の『お姉ちゃん』か」
「……当たり前でしょ」
 幾ら咲希なんてカッコつけて呼んだって孝之は私の弟。いつか、別の道を行く家族。今抱えている何かもそのうち消えていく。私はお姉ちゃんとして孝之を応援するよ。
 もう寝るよう促す意図で孝之の顔を見上げようと姿勢を仰向きに変えた。同時に孝之が私を見下ろしている。彼の目は悲痛な傷を湛えているように思えた。気づけば弟である孝之は私に覆い被さり、私の髪を梳いている。こんな風に触れる彼にただならぬ様子を感じ取り硬直する私の目の前で孝之は口だけの笑みを見せた。相変わらず傷ついたような悲しい目をしたまま。
「……全然危機感がないね。俺はさ、弟の立場を捨てにここに来たんだけどね」
「何を、言ってるの? こ、こういう悪ふざけは」
 何を言っているかわからない。ただとにかくこの手を払わなければと掴む私の手は彼に容易く掴まれてしまう。振りほどこうとしても強い力を込められるばかりでやがては彼が抱きしめてきたので唖然とする。
「俺は本気だよ、咲希……ああ、それとも『お姉ちゃん』って呼んであげようか。どっちにしても今日からお姉ちゃんには戻れなくなるよ。ちょっとは理解した?」
「ま、待ちなさいよ。悪趣味だわ。こんな冗談」
「残念、本気だって何回も言わせないでくれ。俺はね、咲希を奪いに来たんだよ。もう今日で家族はおしまいだね。咲希は俺が貰うから」
 何を言っているのか。これは過ちだ。私達は血の繋がった家族だ。このまま許せば私達は罪人になってしまうのに、孝之の手には何の躊躇いも見えない。
「ねえ、良くないよ。こういう悪ふざけは。私は、孝之を」
 本当はもう分かっている。孝之は至って真面目に罪を犯すのだと。
 ──私から遠くなっていく孝之に寂しさを覚えていたのは確かな事実。でも、どんなに孝之を大切だと思っても私の中で孝之は家族で弟だ。それ以上にはなれない。ねえ、そうでしょ、孝之?
 孝之は最後に目を伏せながら残酷な言葉を吐露する。
「咲希……本当にごめんね。でも、咲希の願いでもそれだけは聞けないよ。だって俺は咲希をずっと愛していたんだから。ねえ、咲希、頼むから俺を見てよ。今だけでもいいから」
 弱々しい懇願と覚悟を決めたような眼差しに貫かれたまま私は何も言えない。そのまま視界が閉ざされていく。近くにあった布団を二人の上から被せたのだろう。罪を犯す彼の、せめてもの償いなのだろうか。自覚しながらも決意を覆さない意思を受け取ってしまったらもうどうすることもできない。
 彼の両手はまるで檻のように私を閉じ込めている。もう、逃れられない。
 ──それでも、大切な弟が幸せになれるなら。それが、孝之の幸せなら。
「……仕方ないね、孝之」
 また遠くに孝之は行ってしまったのだ、私を置いて。もう二度と孝之には追いつけない。それがあまりにも寂しくて苦しかった。目の前にいるのは孝之に姿が似ているだけの違う人なのだ。私の大切な弟はどこかへ消えた。
『孝之……』
 消えゆく残像に涙を流しながら私を捕らえる檻の主に身を委ねた。
 君が幸せなら、喜んでこの苦い残滓を飲み尽くそう。大丈夫、君をひとりになんてしないから。