E06 幕張でバーチャルアイドルミゾレと握手


 息を吸って吐く。息を吸って吐く。深呼吸のカウントが己の鼓動に伴って速くなってゆくのを感じ、澤良木連路は意識して押しとどめると、ようやく携帯電話の画面を明るくした。
「澤良木(さわらぎ)さん、資料送ってもらえますか」
「あ、いま」
 声をかけられ、反射的にパソコンで資料ファイルを社内サーバーにアップするが、焦っていて別のものを送ってしまった。
「ごめん、待って……」
「出来てなかったらまだいいですよ」
 いつの間にか隣に立っていた後輩、長江が、澤良木の携帯電話の画面をタッチした。
「なんだ、何を見ているかと思ったら。意外ですね、こういうの好きなんです? まさか行くつもりで? でもまだ仕事中ですよ」
 やるべきことを終えた定時後であるが、言わなかった。相手は残業をしなければならない立場だ。澤良木は正しいファイルをドラッグし、「あげたよ」と、優しい声音を意識する。
「あざす」長江は振り返らないまま、自分の仕事にかかりはじめた。
 後輩といっても年次はかなり離れており、新人の頃は澤良木が彼をあごで使っていた。今や立場は逆転し、定年をすぎた澤良木は彼の雑用係として会社に残っているようなものだ。
「長江(ながえ)君は好き? バーチャルアイドル」
 先ほどファンクラブに届いた新着情報を見たかったが、それは後にしたほうが良いだろう。はやる気持ちを抑えて携帯電話をポケットに入れる。
「そればっかですからね、動画サイトとか。目に入ってくるだけですよ」
「そうなんだ、だよね」
 先ほどの反応に好意的な印象を感じもしかしたらと期待したが、気持ちがしぼんでいくようだった。お疲れさまと口の中でつぶやいて席を立ち、そそくさと長江の前を通った。と、青白い顔がふと澤良木を捉える。
「行くんすか、握手会」
「あ……、考え中」
 鋭い目つきに気圧され、逃げるように会社を後にした。
 エレベーターや駅のホームで、幾度となく携帯電話の文字を追い、スケジュールを思い出す。うん、行ける……行ける。靴に羽でも生えただろうかと錯覚するほど、澤良木の足は軽やかだった。



 ウー、ハッ、ハッ、ウー、ハッ!
 ウー、ハッ、ハッ、ウー、ハッ!
 ウー、ウー、ウー、ハッ、ハッ、ハッ!
 ウッ、ハー、ウッ、ハー、ウーッ、ハッ!

 ぜいぜいと肩で息をしながら、消音マスクを外して清涼飲料水をあおった。握手会ではミニコンサートもあるのだ。そういうものに関わることなく人生を送ってきた澤良木は、合いの手の練習をしているのだった。
 そう、澤良木はアイドルというものに無縁だった。世間は何度もアイドルブームを迎えたが、娘が地下アイドルになりたいと言い出したときに調べた以外、それは彼の人生の対岸にあるものだった。
 娘に反対しておきながら二十年経ってオタ芸の練習に明け暮れるなど年甲斐もない、と我ながら呆れるような気持ちになるが、澤良木はバーチャルアイドルユニット「コースター」にのめりこんでいる自分を否定できない。だからわざわざ早起きをして、こっそり納戸で練習するのだ。「コースター」ロゴの入った消音マスクをつけて声をあげ、ゴーグルの中で踊る青い髪の女の子に精一杯のエールを送る。
 きっかけは忘年会で当たった景品だった。パッケージには雪の飾りをつけた青い髪の女の子のイラストがあり、妙にふくらんだスカートをはいてポーズをとっていた。アニメキャラのフィギュアかと思って近くにいた若者にあげようとしたら、新商品のおもちゃだと逆に教えられた。
「コンサート映像が見れるフィギュアですよ~。足の台はコースターといって~、それを変えると性格やパフォーマンスのベースが変わって~、自分好みのアイドルが作れるんす~」
 彼は親切に遊び方を教えてくれた。誰だか思い出せないが、相手も自分も相当酔っており陽気であったことは確かだ。だから彼の言葉に首肯したのかもしれない。
「今、試しますか~、設定しますから~」
 そうして導かれたコンサートの世界がどういうものだったか、覚えていない。気がついたら自宅で寝ており、後日、他のフィギュアやコースターが通販会社から届いた。どうやら勢いで注文をしたらしい。妻と娘にばれないよう、誰も使っていない納戸を片づけ、そこで再びコンサートを見た。フィギュアと同じ数の女の子が狭いステージを駆け、歌い、踊る姿に、たまらず声をあげ手を振る自分がいた。

 彼女たちはコンサートの再生数やコンテンツの購入額によってパフォーマンスの精度をあげる仕組みになっていた。よくできたおもちゃだ。澤良木は現実へもどるたび彼女たちが架空の存在であると自分に言い聞かせたが、誰に対する言い訳なのだと次第に開き直っていった。
 今度の握手会は、自分の推しアイドルを一体連れていき、高解像度で等身大の映像と三十秒間の握手を楽しむという、かつて女性アイドル界で大流行したファンイベントだ。握る手は人形のものだろうと揶揄する意見がネットに散見されたが、チケットはまたたくまに売り切れた。自宅ではなく、実際に会場へ足を運び、列に並ぶ行為が話題を呼んでいた。澤良木は第三次募集でやっとチケットを得て、有給申請をして幕張へ向かった。推しアイドルをタオルでくるみ、デイパックに忍ばせて。
「やっと会える……」
 感極まってうめくような声がこぼれてしまう。使い捨て消音マスクをつけてきてよかった。見るとまわりの乗客たちも同じようなマスクをつけている。お仲間だろうか。若者が中心であるが、ちらほらと年輩の姿もあり、澤良木はほっとした。カバンの中に手を入れにやついている男もいる。きっとフィギュアを見ているのだと思うと、澤良木もたまらず胸に抱いたデイパックをひらいた。
 そのときだ。
 電車が急停車をし、反動で体が前へのめった。日々の練習で疲れ果てた足は、不安定な重心に耐えきることができず、澤良木は床へ額を打ちつけていた。



 幸い擦り傷で済んだ澤良木は、予定通り幕張メッセへ到着した。初めて来るため建物が複数あるとは知らなかった。お仲間らしき人物の後をつけるとやがて案内板があり、腕章をつけたスタッフが見えてきた。
「チケットの準備してくださいー」
 メガホンで声をかけている。いよいよだ。澤良木はケータイをポケットから出し、チケットを画面に呼び出した。今のうちに水も飲んでおいたほうがいいだろうかと、飲み物を取り出すためデイパックの脇についたファスナーから中を探いると、なにか嫌な予感が胸をついた。
 タオルを、ゆっくりと取り出す。
 周りが邪魔そうに体をねじって澤良木を抜いていく。会場を目の前にしてじっとしていられないのだろう。それは澤良木とて同じであったが、その思いは先ほど電車内で頭を打ち付けた以上の痛みを伴って砕けた。
「ミゾレちゃん……?」
 彼の両手の中で、青い髪の女の子のフィギュアはほほえみを浮かべて横たわっている。華奢な足下ではコースターが割れていた。彼女のベースが割れたということだ。
「ど、どうしよう」
 うろたえた澤良木は近くのスタッフの元へ駆けていった。
「どうしよう? あの、ねえ。これ、割れて……さっき転んだときかな」
 落ち着いて下さいと両肩を抑えられ、そのスタッフは持ち場を離れられないのだろう、とりあえず入場してくれというようなことを説明されたが、澤良木は動転しており彼の言葉が頭に入ってこなかった。自分でもこんなに動揺するとは思わず、他のスタッフが駆けつけて救護室までいく道すがら急に恥ずかしい気持ちが胸をなでた。
「その、取り乱してしまいすみません。もう平気です」
 隣を行く若者に声をかける。スタッフ用通路を歩いているため、人混みとは外れていた。
「本当に大丈夫ですか。午後からの部に変えることもできますよ」
「いえ、予定通り第三部に並びます。それよりもその、コースターが割れてしまって。どうしたらいいでしょう? ミゾレ……あ、えーっと、予備とかなくて」
「そうですねえ。物販の補充分があるので、受け付けで買えるようにしましょうか?」
 お願いしますと肩をすくめるように頭をさげる。スタッフは内線で何カ所かに連絡をとり、コースターの種類などを手配しておいてくれた。澤良木は恐縮しながら彼と別れ、会場の中央にあるインフォメーションの受け付けで真新しいコースターを得ることができた。
 コンサート、握手会、物販、それぞれ回る時間が決まっているのだ。澤良木はなんとか第三部のミニコンサートの列にすべりこめたが、心は晴れなかった。スタッフはさも気の毒そうな声で別れ際にこう言った、握手会は楽しめないかもしれませんが。
 彼の発言は親切か、それともただの憐憫からくるものなのかはわからない。しかしその言わずにおれないのだという気持ちは澤良木に痛いほど伝わってきた。
 仮設ステージを囲むように白線が引かれており、全員が目印に合わせて立ち並ぶ。VRのゴーグルを装着し、コースターとセットしたフィギュアをカメラで映してデータを読み取った。スタッフの合図で、まるで体育祭の出し物のような正確さで、成人男性たちが同じ行動をとっている。この熱気はVRでは体験できないものだ。肌をなでるような音の波が押し寄せてくる。声援だってマスクに抑えられることなく発散される。
 セットリストはファンにアンケートを採って反映したものだ。一曲目はだれもが知っている無料コンテンツで見られるテーマ曲、コースターガール。
 青い髪の女の子が澤良木の真正面に立った。おびえるように周りを見て、ぎこちなくウィンクを飛ばすとリズムに合わせてステップを踏み始める。スカートが、リボンがひるがえる。髪飾りが揺れる。
 澤良木は目を見ひらき、ごくりと喉を鳴らした。
 そこにいたのは、ミゾレの初期状態ではない。ベースとなる性格からランダムに導き出された、澤良木が初めて見る女の子だった。



 第三部のミニコンサート会場は異様な熱気に包まれて終わった。
 見知らぬ者同士ながら四十分間リズムを共にした者同士で感想を言い合う様子は、すっかり心が打ち解けており、以前からの気の合う仲間のようだった。
「おじさん、すごい熱演でしたけど、いつもあんな感じ?」
 澤良木のとなりの青年も昂揚した調子で声をかけてきた。澤良木は汗を拭き拭き目を細める。
「いや……まあ、なんだか悔しくて」
「もしかして根っからのアイドルオタ? そうか、黎明期もやってたんだ。血が騒ぎますか。よかったらファンコード交換してくださいよ」
 息切れしてうまく説明できそうもない。笑ってごまかしながら交換に応じ、行列のまま握手会のほうへ移動する。
「うちの会社にもおじさんくらいの人いて、忘年会でフィギュアセット当てたんすよ。うらやましかったなあ。使い方教えたらはまったみたいで」
「あ、ぼくも同じだよ。忘年会でね」
 スタッフの人が澤良木を見てめがねを外すジェスチャをした。澤良木は初めて自分がゴーグルをしたままだということに気がついた。どおりで視界が暗いわけだ。
「って、澤良木さん?」
 明るくなった視野で振り向くと、見知った顔がそこにあった。
「長江くんじゃないか……」
「えっ、あー、お疲れさまです」
 いつもワイシャツ姿で顔を合わせている相手とこのようなプライベートで出会うなんて気恥ずかしい、と言わんばかりに長江は肩をすぼめた。その姿を見て、澤良木はなぜだか心が暖かくなっていく。白くざらついた氷の表面が水によって透き通るように、緊張していた糸がゆるんだのだ。
「忘年会で教えてくれたの、長江くんだったんだね。そんな気はしてたんだけど……」
 探ってもコースターアイドルに興味がなさそうだったので、勘違いだと思ったのだ。長江はそれを聞いても肩をこわばらせているので、握手会場まで今度は澤良木がしゃべり続けることとなった。といっても仕事の内容ははばかれるため、自然、今日の出来事の話題になっていく。
「だからね、悔しくて踊ったんだ。年甲斐もないよね。いつからかわからない筋肉痛も続いてるし」
「コースター、見せてくださいよ」
「え? でも割れてるよ」
「いいから」
 行列はいつしか握手の待機列に加わっていた。時間はやや押しているようで、順番がくるまでまだまだかかりそうだ。
 長江にいわれるまま割れたコースターを出すと、彼は自分のショルダーバッグからタブレット端末を出すと、なにやら操作をし始めた。
「澤良木さんて機械に強そうで弱いですよね。まさかこのコースターの中に全部のデータが入ってると思ってます? これ、ただの通信機器ですよ」
「それくらいはわかるが……。データの再発行には専用のアプリが必要じゃないか。本部の人たちも準備していなかった」
「ここにありますよ」長江は端末の画面をぱたんと回転させる。「暗証番号をどうぞ」
 画面には、コースターアイドルのロゴとミゾレのアイドルコードが表示されている。破損したコースターから読み取ったのだろう。
「長江くん……」
 澤良木はずっと、列から外れるべきか思案していた。
 先ほどのコンサートでは悔しさのあまり全身全霊でオタ芸を披露するほどだったのだ。それがいつしか心地よさに変わったのは、周りのファンたちもノってきたからに他ならない。
 しかし握手会では一対一である。毎日会っているはずなのに、やっと会えるような気持ちでこの日を待ち望んでいたのだ。
 それがこんなことになり、澤良木は先ほどのステージ上でドジを踏むミゾレを見てあれは自分が今まで育ててきたミゾレとはちがうと確信していた。外見とベースとなる性格が同じであることに違いはないが、初めて見る女の子だった。その子と握手をすればきっと悲しいだろう。それを思うと切り上げたほうが賢明だと、話の着地点を探っていたのだ。
 もう一度長江の目を見て、キーに指を置く。
 汗が流れた。
「暗証番号……なんだっけ……」

 パーティションの内側は薄暗かった。ここからはゴーグルをつけなければならない。まるで面接を待つ就活生のように、みな真剣な面持ちでフィギュアを抱えている。
「次のかた」
 促されて空いたブースへいく。遠目に見ればファンたちは暗幕に向かって手を差し出しているという異様な光景であるが、ブースの前へ行くと水色の髪をした女の子がいるとわかる。
 澤良木が手を出すと握り返してきた。弱々しく、ひんやりとしていて、でもたしかめるように握りこんでくる。
 大きな瞳が弧を描き、形の良い唇が動く。
「やっと会えたね!」