E08 それは手記にも似た

 朧な光と、意味をなさないひずんだ音。
 それが、私の直面した全てだった。


 私は何なのか、ここはどこで、どういう状態に置かれているのか、まったくわからなかった。なんとなく薄ぼんやりとした光が見えるが、それが何なのかはわからない。じりじりと聞こえている音の、その意味もわからない。ただ茫然と、迷子のような心持ちで私はそこに在った。迷子ならば誰かを探しに行くこともできただろう、だが私にはそれができない。そう思ったところで、そういえば私の手足は、ということに思い至った。人間の体というものを思い浮かべ、自分の四肢を動かそうとイメージする。しかし、私の思い通りになるものはどうやら何もないようだった。指先ひとつ、いや、瞬きすら思い通りにならない。自分に手足がついているのかどうかもよくわからない。そもそも目は開いているのか――光を感じるから少しは開いているのだろう。耳は――音が聞こえているということは、ついているに違いない。しかし口は、わからない。声は出ない。舌のありかもわからない。
 命綱もなしに宇宙空間に放り出されたようだ、と私は思った。実際の宇宙空間など知る由もないが、なんとなくその言葉が私の脳裏に浮かんだのだった。私の意識だけが、この空虚な場所に漂っている。誰もいない。ここには私以外の誰もいない。
 もしかして、私は死んだのだろうか。死後の意識はこんなところに投げ出されるのか。死ねば無に帰すものだと思っていたが、そうではなかったのか。……「思っていた」というのは、少しばかり奇妙なことではあった。何故なら、私は過去の私について何も覚えていないのだから。だが、無意識のうちにそう考えたということは、かつて私は確かにそう思っていたのだろう。
 いずれにせよ、今の私にできることはない。これは夢、そうならいいと思う。意識を失うように眠りに落ちて、そして目が覚めたら元の通りに戻っていれば……そうであれば。
 そのとき、私のどこかに「何か」が触れた。
 何だろう。私は訝しんだ。今の私には、自分の体の形がわからない。形どころか、上を向いているのか、横向きなのか、立っているのか、寝ているのか、それすらもわからないのである。なのに、その「何か」に触れられたことだけは確かにわかった。一体私のどこに触れているものかもわからないが、どうか触れ続けていて欲しいと思った。その「何か」は、私のどこかをゆるゆるとさする。私はその感触に、自分の全神経を傾けた。傾けようとした。その「何か」をもたらしているのは誰なのだろう。私にとって、どういう存在なのだろう。私の知る人だろうか。知っていたはずの人なのだろうか。少しでも何か見えればと願うが、私の視界は相変わらず薄靄の中にいるようで判然としないし、眼球も動かせない。声が聴こえないかと耳を澄ましてみても、音はわんわんと唸るばかりで意味をなさなかった。
 「何か」が私のどこかに触れている。結局、それ以外のことは何もわからなかった。その触れる場所、触れ方に何か意味があるのか、ないのか。何もわからなかった。
 それでも。
 その「何か」は、私にとっての希望となった。


 時間の経過を区切る術を私はもたない。時が過ぎても視界は明瞭さを増すわけでなく、聴覚も依然として改善しない。その他の感覚に至っては、全くもって絶望的だった。私は今、一体どのような姿で、どこにいるのだろう。一体何があったというのだろう。何もわからないまま、私はただ存在している。
 幸いなことに、私に触れる「何か」はたびたび訪れた。それは私のどこかをゆっくりと往復するように触れることが多いので、私はそれにありったけの神経を集中させて何かを感じ取ろうとした。それは、硬くはないがふにゃふにゃというほど柔らかくもなく、先はいくつかにわかれている。そして、どうやらふたつある。同時に離れた二か所に触れられているように思えることがあったから、そう判断した。
 やがて、「何か」は様々な触れ方をするようになった。何かを私に伝えようとしているのかもしれない。だが、残念なことに私の感覚はそれほど鋭敏ではなかった。触れられていることそのものはわかっても、感触そのものはどこか茫洋としていたし、時によっても違った。私はいつでもその「何か」のもたらす刺激を余すところなく感じたいと思っていたが、それはなかなかに難しいことで、私はその事実にひどく落ち込んだ。
 「何か」にとって、私はどう見えているのだろう。物言わぬ私は――動くことも話すこともできない私は、「何か」に何も与えることはできない。「何か」に触れられてうれしいのだと、それを伝えることもできない。いつか、「何か」が訪れなくなったらどうすればいいのだろう。その身勝手な恐怖に怯えながら、私はひとり、果てのない自我の海を漂い続けていた。
 私の恐怖をよそに、「何か」は定期的に私に触れてくれた。優しく、時に寂しげに、また時には余裕をなくしたように少し手荒く。私の朧な感覚から嗅ぎ取った「何か」の感情、それら全ては私の妄想に過ぎないのかもしれない。それでもよかった。私は、私以外の他者とその「何か」でしか繋がれないのだから。
 「何か」は私に痛みをもたらすことはなかった。もしかすると、痛みという感覚は私から失われているのかもしれない。他にも数多の感覚を失っているのだから、痛みがないことくらいどうってことはない。だが、もし痛みを感じることができれば「何か」から与えられる感覚がひとつ増えたのに、ということは残念だった。それが痛みでも、熱さでも、冷たさでも、何でもよかった。私は「何か」に縋るよりほかなかった。
 私は夢想する。「何か」の持ち主を。女性だろうか。男性だろうか。きっと私は男性だったから、女性だといい、と思った。だが、男性でも構わない、と慌てて付け加える。誰も聞いていないのに言い訳がましいことだ。どんな人だろう。私の愛した人だろうか。私を愛した人だろうか。もし、そうだとしたら……。私は痛みを感じた。本当の痛みではない、本当の痛みだったらどれほどいいだろう。だが、私には痛みを感じることはできない。ただ、胸がぎゅっと締め付けられるような、そんな感情が沸き起こったのだった。もし私を愛してくれた人がいて、その人が今の私を見たならば、きっと心を痛めるだろう。一体何があって、どんな姿になっているのか想像もつかないが、きっとろくでもない状況に違いない。動くことも、話すことも、まともには見ることも聞くこともできない。しかも記憶すらも欠落してしまっているから、私には文字通り何も残っていない。そんな私を目の当たりにして、その人は何を感じているだろう。絶望したか、悲しんだか、恨んだか――やがて諦めたか。
 ああ、そうだ。いつかは諦めるだろう。たとえ当初は寄り添うことを選んだとしても、いつまでもそうやってはいられないはずだ。彼女――便宜上彼女と呼ぶが、彼女には彼女の人生がある。私に捕らわれる必要などない。私自身、自分は死んだのかと思ったほどだ。死んだものと思ってもらった方がいい。そして、私のことを忘れて、どうか……幸せに……。
 その時、ちょうど「何か」が私に触れた。その感触に、私はできるはずもないのに泣きたくなった。私の考えていることなどわかるはずもないのに、それは何度も私を優しく撫でる。何度も、何度も。
 私は願う。どうか、私を忘れる前に、私を殺して欲しい。どんな方法でもいい。だが、ここにひとり置き去りにするのは辞めてくれ。どうか。どうか。
 それが嫌なら、たまにでもいい。私に触れて欲しい。「何か」が私に触れてくれること、それだけが唯一私に生きている実感をもたらしてくれるものだ。その感触だけで、私はかろうじてこの世に繋ぎ留められている。だから、それ以上望みはしない。ただ、触れてくれ。どうか。
 どうか。


 「何か」は私を見捨てなかった。それはとてもありがたいことで、だがそれと同時に私は心配もした。しばしば私の側に来ていて大丈夫なのか。もちろん、その「何か」の持ち主がひとりであるという証拠はどこにもなかったのだが、私は同一人物だと勝手に思い込むことにしていたし、実際そうなのだと思う。
 「何か」は当初、リズミカルに触れてみたり、触れている場所に何かしらの形を描いてみたりというようなことをしていたが、やがてやめてしまった。きっと私に何かを伝えたかったのだろうが、私には何もわからなかった。たとえわかったとしても、そのことを相手に伝えるすべもない。無用な努力をさせるのは申し訳なく思っていたので、やめてくれたことにはむしろほっとした。
 その代わりのように、「何か」はじっと私に触れているようになった。そして不思議なことに、私は夢を見るようになったのだった。
 夢、というのが正確な表現なのかどうかはわからない。だが、そうとしか言いようがなかった。朧な光しか写さなかった私の視界に、様々な景色が――とはいっても、どこか靄の掛かったように霞んでいるが――流れ込むようになった。意味を為さないノイズの響いていた耳元に、風のそよぎを、擦れる葉音を、鳥の囀りを感じるようになった。私は二本の足で地面を踏み、ゆっくりと歩いていく。私は常に導かれている。私の手を引くのは、誰かの手。ほっそりとした、白い手だった。爪は短く、私のものよりも一回り小さくて、指輪の類はついていない。おそらく女性の手だ。だが、その手から腕を辿って顔や全身を見ようとしても、それははっきりとしない。私に見えるのは、その手だけ。時に両手で包むように、時に片手で力強く握り締めて。夢の中で、手は私を片時も離さなかった。私も握り返したかったが、うまくできていたかどうか自信はない。
 私たちは歩いた。海辺の街を。花咲くみどりの丘を。都会の喧騒の中を。それが私のかつて見た景色なのか、私の記憶から引き出されているものなのかはわからなかったが、そんなことはどうでもよかった。夢の中ではいつも手が、その持ち主が私の側にいてくれる。そのことが私をひどく幸福にした。手の持ち主の顔を見ることも、手の持ち主と話すこともできなかったが、それでも良かった。これ以上のことを望んでは罰が当たる。
 夢には必ず終わりがあった。夢の中で、手は私を強く握り締め、そして離す。それが夢の終わりの合図だ。恐らくそれは、「何か」が私から離れるのと同時なのだろう。急激に景色は色褪せ、喧騒は雑音へと姿を変える。私はこらえきれぬ寂寥に胸を穿たれながらも、それでもひとときのやさしい夢に感謝した。
 夢は何度となく私の元を訪れ、そのたびに私はその手に導かれて夢の中を歩いた。手の持ち主は、この光景を見ているのだろうか。それとも、私だけが夢を見ているのだろうか。普通に考えれば後者だろう、だが私は前者であればいいと願った。願うことくらいは許されてもいいはずだ。
 私は手の持ち主のことを知りたかった。私の知り合いなのか。家族なのか。友人か。こんなに私のところに来てくれるのだから、それなりに親しい仲だったのではないか。それなのに――ああ、私はその人のことを思い出せない。思い出せない。思い出せない。何も思い出せない。自分のことも、その人のことも、他の誰かのことも。
 可笑しいと思われるかもしれないが、私はいつしかあの手に恋い焦がれるようになっていた。ほんの少し反るくせのある小指、手の甲に残るかすかな火傷か怪我の痕、いつだって私よりも低めな体温。私の知るのはそれだけだ、それだけだが、それで十分だ。私は私の手を引くそれを愛しいと思った。恋をした。多分、この感情は恋だった。決して伝えることのできない、決して伝わることのない、それは虚しくも確かな片思いであった……。


 いつもの茫洋としたひとりきりの世界に漂っていた時、私は突然ただならぬ苦痛を感じた。体が潰れそうに苦しい。こんなことは初めてだった。助けてくれ! 声ならぬ声で叫ぶ。助けてくれ! 誰も聞いてなどいないとわかっていても、それでも私は助けを求め続けた。苦しい、苦しい、誰か、誰か。
 しばらく引き裂かれそうな苦痛に身悶えするような心地でいると、やがてふっとそれが和らいだ。……手だ。私の手を、あの手が握ってくれている。
 助けに来てくれたのか。
 私はほっと安堵して、そしてぽろぽろと涙をこぼした――実際に涙が出ていたかどうかはわからない、だが私はただ泣いた。
 苦痛は消えてはいなかった。胸はまだ重苦しいし、頭はいつも以上にぼうっとしている。それでも、今ここにあの手がいてくれること、それだけで私は底知れぬ恐怖から解放されていた。
 手は、私の手を引こうとする。だが、私は歩けなかった。いつものように一歩を踏み出そうとするのだが、どうしても足が動かないのだ。いつだって、夢の中なら歩けたのに。私は焦ってどうにかしようとするが、駄目だった。その手を握り返すだけの力だって、本当はもう残っていなかった。
 そういえば、今日は何の景色も見えない。音も聞こえない。ただ真っ白な靄に包まれて、私と手とがそこにあるだけだった。
 異常だった。いつだって異常なことばかりだが、今日は特別そうだった。
 私たちを包む靄の色は少しずつ濃くなっていく。白から灰色へ、そして……。
 もしかして、と私は思った。私はいよいよ死ぬのではないか。そう思うと、何もかもが腑に落ちた。
 視界がぼやけていく。ずぶずぶと、私は泥のようなぬかるみに引きずり込まれていく。私の手を包む手が、爪の食い込むほど強く強く私を握って――。
 駄目だ、と私は思った。このまま、この手を連れて行くわけにはいかない。私はこの手を愛した。私にとってこの手は全てだった。だから――だからこそ、私は最期の力を振り絞って、その手を振り払った。
 手が離れる。もう届かないと知りながら、私はそれでも手を差し伸べた。
 ありがとう。ありがとう。私は、貴方に生かされた。だからどうか、貴方は、生きて

  *

 フラットになった心電図計から、彼女は無言で目を逸らした。
 いつも通り、型通りの死亡診断の儀式。死亡診断書に書き込むために、私は彼の死亡時刻を決める。
 お世話になりました、と呟く彼女は、漆黒に塗り潰されたモニタを見つめていた。それは、彼女がある研究所から持ち込んだという、彼のわずかに活動していた大脳皮質からその思考を読み取り、この約一か月間文章として表示し続けていたモニタ。
 彼女は自分の手を互いに撫でるようにすり合わせた。ほっそりとした、飾り気のない白い手。あれが、彼の唯一認識できたもの。彼を夢へと誘ったもの。彼の恋した手。彼の、彼を愛した人の手。最期に振り払った手。
 ――最期の最期に……、生きて、なんて。
 彼女は崩れ落ちるように慟哭した。