E09 夜の谷で

(お前を守り抜いたのは、このためだった)

 夜の森は炭を塗り込めたように暗い。曖昧になる自分の体の在り処を、右手に握りしめた光石が繋ぎ止めている。トラッドは目を凝らしつつ、小道を走っていた。傍らでは谷底が咢を広げて待っている。片や光石、片や銀貨の入った袋を握った両の手は小さく、暗闇の中では心細さが増した。
 村の収入源である薬草を売りに町まで出たのが今朝のこと。いつもなら午後には帰路につけるものを、今日は売り手が多く、トラッドの分に銀貨が支払われた時には日が暮れかけていた。夜の森は歩いてはならない、と大人たちによく言われていたが、走れば暗くなる前に村に着ける自信があった。
 ところが、森に入ってみると来た時と道が違っているような気がする。気がする、というだけで、はっきり違うと言えるほど異なっているわけでもないのが厄介だった。こっちのような、あっちのような、を繰り返している内に暗くなり、今に至る。とにかく知った道へ出なければ。
 自然と足は速くなるが、次の瞬間、飛び出していた木の根に足を取られた。
「ぅわっ……!?」
 夜の森、逸る気持ち、極まる心細さが一瞬の判断を遅らせた。トラッドはそのまま斜面を転げ落ち、痛みと恐怖の連続が意識を覆うのに時間はかからなかった。
 そうして目覚めた時、トラッドは一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。しかし、数秒遅れてやってきた全身の痛みと、地面に転がる光によって現実へと引き戻される。
 ゆっくり体を起こし、光石を手に取る。その光があるだけで不安の一端が溶けていくが、途端にトラッドは強烈な恐怖に襲われた。左手に握っていた銀貨の袋がない。
 どうやらトラッドがいるのは斜面の途中、僅かに平らになった部分のようで、人の入らない森の典型よろしく草木が好き放題に生えている。光石を掲げても暗い草花が見えるのみだった。
 だが、探し出すしか道はない。落としてしまった、と暢気に報告できる額ではなかった。
 トラッドはしばらく辺りを探した。転げ落ちた際に遠くへ飛んでしまったのだろうか、と下方へ光を掲げてみると、剥き出しになった岩の上に何かが見える。身を乗り出したトラッドは、神様が微笑んだような気がした。
 あった、とかすれ声で呟き、慎重に斜面を下っていく。そして岩の上に落ちた袋を掴んだ瞬間、高揚していた気分は奈落へと落とされた。袋が軽い。端が破れており、そこから中身が零れたようだ。これでは足りない。辺りを見ても光に反射するものはなかった。
 どうしよう、という言葉が頭の中を駆け巡る。その絶望が体を震えさせているようで、だが、現実に足下がおろそかになったトラッドはバランスを崩して再び斜面を転げ落ちた。
 そして二度目に意識を失う刹那、暗い夜空に大きな木が横たわっているのを見た。


 次に目覚めた時、トラッドは自身の状況を確認する必要もなかった。歯を食いしばり、泣くまいと堪えたが難しい。誰が見ているわけでもないのに自然と目を覆い隠そうとした時、その腕へ白いものが巻きついているのに気が付いた。破れたらしい袖の向こうに、綺麗な包帯がある。
 何が起こっているのだろう、と包帯に触れた時、不意に右横から淡い光が現れた。光石のそれであったが、トラッドが持つ物とは微妙に色が違う。これは緑色が強い。その光に照らされて人影が浮かび上がり、トラッドは息を飲んだ。
「……目が覚めましたか?」
 秋風のような声だった。その軽やかさは、飛び起きようとしたトラッドの体を落ち着かせる。
「まだ痛みますか」
 卵のような光石を掲げ、トラッドの様子を見ようとする。そこでようやく、人となりが見えた。
 ゆったりとした白い衣服はただ布を広げたようだが、縁に植物の紋様が刺繍されている。同じような意匠の頭巾で覆った頭は髪の色もわからず、頭巾の下から見える相貌は若い女のようでもあり、男のようでもあり、それは声にしても同じことであった。傍らには杖と思しきものが置かれ、その全てをとっくり見つめたトラッドは村で聞いた話を思い出していた。
「……ベダクさま?」
 ベダクと呼ばれた彼とも彼女ともわからぬ人物は、一瞬、黙した後に「はい」と微笑んだ。
 そうして腰を上げようとするのを、トラッドは慌てて制止した。
「大丈夫です。ほんとに。びっくりして」
 時を経る毎に、体のあちこちが思い出したように痛むが、それよりも驚きの方が勝る。
 トラッドが生まれる僅かに前、突如として東の果てから濃い瘴気が溢れだした。魔物の類か別種の何か、それを確かめるにも瘴気と共に現れた魔物や汚染された土地が人を拒み、生物の生息域と汚染域が半々にまでなったころ、一人の剣士が名乗りを上げた。自分がこの根源を断ちに行く、その為の同士を募りたい。その熱意と若さは誰の目にも明らかな希望であった。
 当代最高とされる者たちが剣士の下に集い、長い旅と激しい戦いの末、瘴気の根源たる魔獣を倒したのがおよそ一年前のこと。
 彼らの冒険譚はたちまちに広がっていった。吟遊詩人によって、噂によって、演劇によって、その名と冒険は誰もが知るところとなったのである。
 剣士ユース、騎士フィローデア、魔術師ガル、弓兵エルミシュ、獣使いトーウィ、神官パルトナ、そして治癒士ベダク。その名を何度も耳にしているトラッドは、語られる姿と名前から想像を膨らませていたが、まるで夢物語のような勇者たちの中で一人、異質な人物がいることは有名な話であった。
 治癒士ベダク。癒す「しか」できない者と言われる。癒しの力なら神官も持っているのになぜ、というのが最大の疑問で、しかし、治癒士の参加を強く希望したのはユースであったという。彼が言うのなら、で納得されたところが大きかった。
 彼が言うのなら、そして彼が帰ってきたら、その理由を聞けばいい。誰もが瘴気の減退と共にその期待を寄せていたのだが、一年が過ぎても七人の勇者は帰ってこなかった。
 その一人が、目の前にいる。
「聞いてもいいですか? なぜ、こんな時間にこの森に?」
 穏やかな問いかけに寝たままなのも失礼なような気がして、トラッドはゆっくりと体を起こす。
「それが……」
 トラッドの拙い話にベダクは一つ一つ頷いてみせ、聞き終えた後に「なるほど」と何かを飲み込んだような顔で言った。そして数秒の後、トラッドへ向き直る。
「日の出まではこちらにいた方がいいでしょう。その怪我では、いくら光石を持っていても魔物や獣が寄ってきます」
「でも……」
 トラッドの頭には銀貨のことがあった。軽くなった袋の感触が忘れられない。そしてふと、自分の手にそれがなく、袋どころか光石もないことに気が付いた。いてもたってもいられずに身を乗り出して辺りを見回すトラッドを、ベダクが宥める。
「大丈夫ですよ。あなたの光石はこちらに」
 そう言って、ベダクはトラッドに光石を渡した。トラッドの家のオレンジ色をした光石だった。
「銀貨も大丈夫。……私の友人が探していますから、きっと見つかりますよ」
 一人旅のように見えたが、と考えかけてトラッドははたと気づく。旅の仲間は七人、それなら他の六人はどこにいるのだろう。
「あなたの光石は大事にされているようですね」
 ベダクの言葉で、トラッドは手の中で光る石に目を落とした。
 光石は各家に一つ、代々受け継がれていく。石には精霊が宿り、彼らを奉ることで家を守ってもらうのだ。寒色系に近いほど強い精霊とされ、トラッドの持つオレンジ色は一般的によく見られる色だった。
「ただ、少し弱ってもいるようです。息を吹きかけてあげなさい。それで彼らは喜びます」
 トラッドはベダクと光石を見比べ、恐る恐る息を吹きかけた。すると、埋み火が燃え上がるように光が強くなる。ベダクはその様子を見て、微笑んだ。
「彼らにとって最大の賛辞は、自らが守る人々からの元気な息吹です。暖炉の火でも、井戸の水でも充分ですけどね」
 他にもこうして、とベダクは両手で自分の光石を包み込んだ。すると、木漏れ日のような光が、新緑の鮮やかな光へと変化する。
「人の温もりでも喜びます。持ち運んで使う時は、時々こうしてあげるといいですよ」
「こんなこと、初めて聞きました」
「ええ。私も……トーウィから聞くまでは知りませんでした。彼女たちは旅する一族ですから」
 仲間の名を口にした時、その表情に陰がさした。だが、その理由をトラッドが察する間もなくベダクは顔を上げる。空を仰ぎ、そしてトラッドに向かって微笑みながら、人差し指を自分の口に当てた。
「大きな声を出さないでくださいね」
 夜空よりも遥かに暗い、大きな何かが空をゆっくりと横切り、その一端がトラッドの視線の先へ吸い込まれていく。ベダクを振り返るが、あえて見ないようにしているかのようだった。そして、トラッドが見つめる先で銀貨のこすれる音がし、目を凝らした先で見えたのは、空へ引き上がる黒い巨大な手だった。
 トラッドは咄嗟に自分で口を塞いだ。長い五本の指と長い爪、この辺りの大木を一掴み出来そうな大きな手が空へと戻っていく。その先を目で追い、トラッドは手の力が抜けてしまった。
 転げ落ちる時に見た、暗い夜空に横たわる大きな木。あれは、あの大きな手の主のあばら骨だったのだ。
 谷底の狭い空へ蓋をするように見える、巨大なあばら骨と腕と足の一部。その他は大きすぎて視界に入らないが、あれは明らかに魔物だ。
 だが、ベダクは事もなげに立ち上がり、銀貨を取って戻ってくる。
 腰に下げていた袋を取り、そこに銀貨を入れてトラッドへ渡した。その重みがトラッドを現実へ引き戻そうとするも、巨大な魔物とベダクの様子がちぐはぐで、トラッドは夢を見ているような気持ちであった。
 ベダクは微笑み、同じ場所に座る。
「あなたが声を上げないでくれて、良かった」
 魔物はじっとしている。ベダクの笑みからは涙が零れてきそうだった。
「私たちが戻らないことを、皆はなぜと言っているのでしょう」
「はい」
「……」
 数秒黙した後、ベダクは口を開いた。
「……旅の中で、魔物との戦闘は避けられないものでした。その度に浴びる返り血は、尋常な量ではありません。……最初に変化が現れたのはトーウィでした」
 光石を両手で握りしめる。
「誰もが、来るべきものが来たと感じました。人でありながら魔物と化す……それを人の力で倒すことはできません。どんな魔法も、どんな祝福も跳ね返してしまう。そんな化け物になることを恐れ、そうなった仲間をどう倒すのかにも恐れ、そして普通の戦闘にも神経をすり減らす毎日でした」
 トラッドに向けて微笑んでみせるも、形だけのように見えた。
「そして彼女の意識にも変化が現れ始めた頃、ユースは私に、彼女へ癒しの力を与えるよう言いました。戦えない私はお荷物でしかなく、その時初めて、皆の役に立てると思ったのです。……ただ」
 ベダクは両掌を見つめた。
「私の力は生命力を活性化させるもの。魔物化は死と再生を超高速で繰り返し、生物を根底から作り替えるもの。その二つがぶつかれば、生物の体はもちません。……彼は旅の前、それを故郷で見て知っていながら、その時まで黙っていたのです」
 冒険の彩色に血が混じり、そこへベダクの言葉が雫のように落ちる。
「……ですが、その時既に、私以外の全員が充分すぎるほどの血を浴びていた。進んでも戻っても地獄。それなら、せめて魔獣を倒す名誉と共に死にたいというのが、皆の一致した意見でした。そうなることも、ユースは考えていたのでしょう」
 見上げてみると、魔物は静かに耳を傾けているようだった。
「トーウィ、エルミシュ、それからガル、パルトナ、フィローデア……」
 そして、とその声が頭上の魔物へと向けられる。
「魔獣を倒し、最も強い血を浴びたユースを倒すことで、私たちの旅は終わるのです」
(お前を守り抜いたのは、このためだった)
 魔獣の死体から剣を抜いたユースには、既に変化が始まっていた。
 彼とわかる声ではっきり聞いたのは、この言葉が最後であった。
「……なら……あの魔物は」
 ベダクは光石を目の前に掲げる。そこにあったのは枝のない真っ直ぐな木であり、その頂点は魔物の胸まで迫っていた。
「巨大な力で膨れ上がったユースを倒すのに、この手では小さすぎるのです。だから私の力で木を育て、それを槍に見立てて彼の胸を貫く。谷底であれば枝もなく真っ直ぐに育ちますし、人の目も入りませんから」
 誰かの知識を辿るように答える。
「あなたには本当に申し訳ないことをしました。道が変わっていたのはおそらく、我々の所為でしょう。日の出まで待っていただければ、あなたを無事に帰すとお約束します」
 トラッドはベダクの穏やかな顔と、頭上の魔物を見比べた。不思議と恐怖はなく、ただ胸を強く掴まれたような痛みだけが残っている。
「……あの、僕がそんな大事な話を聞いても、よかったのでしょうか」
 木を見上げるベダクへ、トラッドは問うた。
「いいのですよ」
 木から視線を離し、ベダクは屈託なく笑う。
「私はこの話を誰にもするつもりはありませんでした。仲間は誉れ高く戦い、その中で散っていったのだと告げる……それが皆との約束です。だから、風に聞く皆の英雄譚はとても嬉しかった。そういう輝かしい物語の中で、皆が生き続けてくれることが私の救いなのです」
 ただ、と続けたベダクは初めて苦笑めいたものを滲ませる。
「あなたを治療し、私は治癒士であることを思い出してしまった。まだ旅発つ前の私を。……あの時の私と今の私はかけ離れてしまいましたが、この手だけは変わらないのです。癒すしか出来ない、この手だけは。だから、私たちが守った人々の中にあるあなたに、この話を聞いてほしかった……どうしても。どうしてもです」
 言いながら、魔物を見上げる。それからトラッドに戻された顔は、重い荷物を下ろしたような安堵感に満ちていた。
「私はユースを弔い、王都へ戻ります。……私の我儘を聞いてくれて、ありがとう」
 そう言い、ベダクは両手を地面に置いて深々と礼をした。
 その綺麗な手を、トラッドは一生忘れられないと思った。
 翌朝、トラッドは元の道へ戻る方法を教わり、その場を去った。谷底のベダクはトラッドの姿が見えなくなるまで見送り続け、その上にいるユースは朝日と共に姿を薄くしながら静かに佇んでいる。胸を貫こうとしている木で僅かに揺れる緑が、谷底に流れるささやかに哀しい時間へ色を添えていた。


 それから後、七人の勇者の生き残り、治癒士ベダクが帰還したと吟遊詩人が語りに来た。
 程なくして年が明け、薬草を売りに赴いた街でトラッドが聞いたのは、ベダクが隣国との戦争に召集されたとの話であった。
 その時トラッドの頭に浮かんだのは、地面についたあの綺麗な手である。
 癒すしか出来ないとされたその手は今、何に触れているのだろう。